アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet, 1840年5月13日 – 1897年12月17日)はフランスの小説家。ドデ、ドデーとも表記される。『アルルの女』を含む短編集『風車小屋だより』、「最後の授業」を含む『月曜物語』などで有名。
ユダヤ人嫌いでも有名であり、反ユダヤ主義者エドゥアール・ドリュモンの『ユダヤのフランス』出版を援助した。ジャーナリストでアクション・フランセーズの活動家だったレオン・ドーデは長男。画家のリュシアン・ドーデは次男。
アルフォンス・ドーデは、フランスのラングドック地方ガール県にあるニームで生まれた。彼の両親はどちらもブルジョワ階級に属していた。父ヴァンサン・ドーデは絹を製造していたが、生涯どこまでも不運と失敗に付きまとわれた男だった。アルフォンスは、ずる休みなどはしないものの、憂鬱な少年時代をすごした。1856年、彼は学校生活の主な舞台だったリヨンを離れ、フランス南部の現ガール県のアレスで学校教師としての新生活を始めた。しかし、彼にとってこの仕事は耐えがたかった。後にドーデが語ったところによると、アレスを去った後何ヶ月も、未だ言うことをきかない生徒の中にいるように感じぞっとして目が覚めることがあったという。
1857年11月1日、彼は教職を辞め、3歳くらい年上の兄エルネストの元に転がり込んだ。エルネストはパリでジャーナリストになろうと励んでいた。アルフォンスもそれを真似て筆を執るようになり、詩を書いて、じきに小さな作品集『恋する女たち』(1858年)を出版したところ、これがそれなりに評判になった。彼はフィガロ紙に雇われて、カルティエ・ド・ヴィルメサン(Cartier de Villemessant)の精力的な編集手腕の元で2~3作の戯曲を書き、個性と将来性があるとして注目され始めた。ナポレオン3世の万能の大臣であったシャルル・ド・モルニー公爵はアルフォンスを親切に扱い、モルニが亡くなる1865年まで秘書の一人として待遇した。こうしてアルフォンス・ドーデは輝く将来に一歩を踏み出した。
1866年、ドーデがパリ近郊のクラマールにて書いた作品で、プロヴァンスのフォンヴィエイユにある風車をイメージさせる『風車小屋だより』が成功した。1868年に初めての長編となる『プティ・ショーズ』を出版したが、大きな話題にはならなかった。1872年には『陽気なタルタラン』および3幕の戯曲『アルルの女』を書き上げた。
彼を世界中に有名にしたのは『若いフロモンと兄リスレール』(1874年)である。その作品は、英語圏にはもちろん、母国フランスにとっても新しい文学を打ち出した。ここに、笑いと涙を生み出す才能にあふれ、哀愁や悲しみの感受性も豊かであり、さらに道徳的な美しさまで兼ね備えた作家が登場した。彼は創造力にあふれ、彼の作品の登場人物は現実味があり、初めの勢いが竜頭蛇尾に終わるような特徴的な人物が名人の筆でいきいきと描かれた。彼の本は生きていた。それは現実世界の幻影を映し出した。
1876年に出版された『ジャック』は、母親のわがままに絶えず悩まされる私生児の物語で、先の本で与えた印象をさらに深めた。これ以後の生涯、彼は知識人として大成功し、『ナバブ』(1877年)、『亡命の諸王』(1879年)、『ヌマ・ルメスタン』(1881年)、『サッフォー』(1884年)、『不滅』(1888年)など次々と小説を出版したり、時々は舞台の脚本を書いたり、回想録として『パリ30年』(1887年)や『ある文学者の思い出』(1888年)を世に残したりした。タルタランの3部作『陽気なタルタラン』『アルプスのタルタラン』『ポール・タラスコン』と、見事な短編の数々(その多くは有名になる前に書かれた)は、彼のライフワークとなった。 またドーデは、古い船と乗組員の物語『ベル・ニヴェルネーズ号』など、子供向けにもいくつかの魅力ある物語を書いた。
ドーデは、ディケンズの真似はしていないと自らを弁護していたものの、主題も様式も良く似た箇所が多い。しかし、彼の文体は間違いなく彼自身のものだった。それはまさに「印象主義」と呼ぶにふさわしい文体で、光と色彩にあふれ、古い流行を追った書き方ではなく、絵具の色のような言葉を見事に並べ上げて計算された効果をきらめかせている。彼の作品をゾラは「魅惑的」と評価した。ドーデは基本的に自然主義文学に属し、エドモン・ド・ゴンクール(彼の家で亡くなった)、フローベール、ゾラらと親しくしていた。彼の自身の体験、彼の周囲の環境、出合った人々、いろいろな役者、パリの生活の全てが彼の作品に盛り込まれた。彼は記憶にある素材に生命を与えた。ただし、彼は実力があったにもかかわらずアカデミー・フランセーズには所属せず、作品『不滅』にはそこに対する批判も見られる。
ドーデは1867年にジュリア・アラール(Julia Allard)と結婚しており、その結婚生活は非常に幸せだったようだ。ドーデ夫人は彼女自身が文学的才能を持っており、2人は知的にも完全に上手くいった。夫人は、『Impressions de nature et d'art』(1879年)、『L'Enfance d'une Parisienne』(1883年)や、カール・スティーン(Karl Steen)のペンネームで書いたいくつかの文学論文によって知られている。
1883年ドーデは病をおして、自分のことをアカデミー会員になれる見込みがないと書いたジャーナリストのアルベール・デルピと剣で決闘し傷を負わせる。ドーデは1888年にも、妻ジュリアのことを悪し様に書いた新聞L'Événementの主幹エドモン・マニエ(Edmond Magnier)に決闘を挑んでいる。
ドーデは普仏戦争での敗戦によってプロイセン(ドイツ帝国)領土となったアルザスの学校で、フランス語に基づく愛国心を描いた「最後の授業」で知られる。
ドーデはサロンを運営しており、そこにはジュール・バルベー・ドールヴィイ、エレディア、フィガロ編集長フランシス・マニャール、エドゥアール・ドリュモンが集っていた。ドリュモンはフーリエ派のトゥースネルやプルードンなど社会主義的反ユダヤ主義の影響を受けており、「金ずくめで強欲、陰謀と策謀を好む狡猾なセム人」であるユダヤ人によってフランスは搾取されていると論じた大著『ユダヤのフランス』を執筆していたが、当時無名だったため出版社を見つけるのに苦労していた。ドーデはユダヤ人嫌いで有名であり、ドリュモンがドーデに相談したところ、ドーデが尽力して出版が実現した。1886年にドリュモン『ユダヤのフランス』は刊行され、ベストセラーとなり、フランスにおける反ユダヤ主義の興隆に大きな影響を与えた。ドーデはドリュモンを「人種の啓示者」であると称賛した。
アルフォンスの長男レオン・ドーデはジャーナリストとなり、アクション・フランセーズの活動家になった。
後年、ドーデは健康を崩してクロラールを服用し、それによる不眠症などに悩まされた。ドーデは、1897年12月16日にパリで亡くなり、パリにあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。