様々な方式で同期問題の根本的対処が試みられた。多くのシステムが蓄音機とレコードを利用しており、これをサウンド・オン・ディスク技術と呼ぶ。円盤式レコード自体は発明者のエミール・ベルリナーに因んで「ベルリナー盤」と呼ばれた。1902年、レオン・ゴーモンが独自のサウンド・オン・ディスク方式Chronophoneを公開した。これには映写機と蓄音機を電気的に接続する特許が使われていた。4年後、ゴーモンはイギリスの発明家 Horace Short と Charles Parsons の開発した Auxetophone に基づいた圧縮空気による増幅システム Elgéphone を開発した。期待を集めたものの、ゴーモンの技術革新は商業的にはあまり成功しなかった。発声映画の3つの問題を完全に解決したわけではなく、その上高価だった。そのころ、ゴーモンのライバルとしてアメリカの発明家E・E・ノートンのCameraphoneがあった(円筒式なのか円盤式なのか資料によってまちまちである)。こちらもChronophoneと似たような理由で成功には至らなかった。
1913年、エジソンは1895年のシステムと同じくキネトフォンと名付けた映写式の発声映画システムを開発した(音源は円筒式レコード)。蓄音機は映写機内の複雑に配置された滑車と接続されており、理想的条件下では同期できた。しかし実際の上映が理想的条件でなされることは滅多にないため、この改良型キネトフォンは1年ほどで姿を消した。1910年代中ごろには、発声映画の商業化の熱が一時的に低下した。宗教団体 エホバの証人は人類の起源についての自説を広めるため、1914年からアメリカ合衆国各地を巡回して The Photo-Drama of Creation を上映した。これは8時間もの超大作で、別に録音された説教と音楽を蓄音機で同時に再生していた。
そのころ、技術革新は重要な局面を迎えていた。1907年、フランス生まれでロンドンで活動していたユージン・ロースト(1886年から1892年までエジソンの下で働いていた)がサウンド・オン・フィルム技術の世界初の特許を取得した。これは、音声を光の波に変換し、セルロイド上に焼き付けるというものである。歴史家 Scott Eyman は次のように解説している。
イリノイ大学ではポーランド出身の工学者 Joseph Tykociński-Tykociner も同様の研究を独自に行っていた。1922年6月9日、彼はアメリカ電気学会(AIEE)の会員に対してサウンド・オン・フィルム方式のデモンストレーションを公開した。ローストやTigerstedtと同様、Tykocinerのシステムも商業的に成功することはなかった。ただし、ド・フォレストは間もなく成功を収めることになった。
1923年4月15日、ニューヨーク市のリボリ劇場で世界初のサウンド・オン・フィルム方式の映画が商業上映された。ド・フォレストのフォノフィルムと題して複数の短編映画とサイレントの長編映画を組み合わせた上映だった。同年6月、ド・フォレストはフォノフィルムの重要な特許について従業員 Freeman Harrison Owens との法廷闘争に入った。法廷では最終的にド・フォレストが勝ったが、今日ではOwensが主たる発明者だったと認められている。翌年、ド・フォレストのスタジオはトーキーとして撮影された最初の商用劇映画 Love's Old Sweet Song(2巻、監督 J. Searle Dawley、主演 Una Merkel)を公開した。しかし、フォノフィルム作品の多くはオリジナルのドラマではなく、有名人のドキュメンタリー、流行歌の演奏シーン、喜劇などだった。カルビン・クーリッジ大統領、オペラ歌手の Abbie Mitchell、ボードヴィルのスター Phil Baker、Ben Bernie、エディ・カンター、Oscar Levant といった人々が初期のフォノフィルムの映画に登場していた。ハリウッドは新技術に懐疑的で慎重だった。Photoplay誌の編集者ジェームズ・カークは1924年3月、「ド・フォレスト氏は言う『トーキーは完成した。ひまし油と同じように』と」と書いている。ド・フォレストの方式は1927年までアメリカ国内で十数本の短編映画に使われ続けた。イギリスでは数年長く使われ、British Talking Pictures の子会社である British Sound Film Productions による短編映画と長編映画が作られた。1930年末までにフォノフィルムの商業利用は衰退した。
ヨーロッパでも独自にサウンド・オン・フィルム方式を開発する人々がいた。1919年、ド・フォレストが特許を取得したのと同じ年、3人のドイツ人発明家がトリ=エルゴン音響システムの特許を取得した。1922年9月17日、劇映画 Der Brandstifter を含むトリ=エルゴンのサウンド・オン・フィルム方式の映画がベルリンの Alhambra Kino で招待客に公開された。ヨーロッパではこのトリ=エルゴンが一時主流となった。1923年には2人のデンマーク人技師 Axel Petersen と Arnold Poulsen が映画のフィルムとは別のフィルムに音声を録音し、2本のフィルムを並行させて映写・再生する方式の特許を取得した。これをゴーモンがライセンス取得し、Cinéphone の名前で商業化した。
サウンド・オン・ディスク方式はサウンド・オン・フィルム方式と並行して改良が進んだ。蓄音機のターンテーブルを特殊仕様の映写機と相互接続して同期するようになっていた。1921年、Orlando Kellum が開発したフォトキネマシステムは、D・W・グリフィスの失敗に終わった無声映画『夢の街 (en)』に音を同期させるのに使われた。出演者の Ralph Graves がラブソングを歌うシーンが追加で撮影され、同時に録音が行われた。台詞も録音したが、出来が悪かったため、その部分は公開されなかった。1921年5月1日、ラブソング部分を追加した『夢の街』がニューヨークで公開され、撮影と同時に録音した部分を含む世界初の長編映画となった。同様の映画が製作されるのは6年後のことである。
1925年、当時はまだ小さなスタジオだったワーナー・ブラザースは、ニューヨークのヴィタグラフ・スタジオを買い取り、そこでサウンド・オン・ディスク方式の実験を開始した。ワーナーはこれをヴァイタフォンと名付け、3時間近い長編映画『ドン・ファン』に採用し、1926年8月6日に公開した。同期音声を付けた長編映画としては世界初であり、サウンドトラックには音楽と効果音が含まれているが台詞は録音されていない。つまり、本来は無声映画として撮影されたものだった。ただし『ドン・ファン』と同時に8本の短編映画(クラシック演奏など)とMPAA会長 Will H. Hays による4分の紹介映画が上映されており、これらは全て撮影と同時に録音されている。これらがハリウッドによる初の発声映画と言える。ワーナーは同年10月にも『ドン・ファン』と同様の手法で The Better 'Ole という映画を製作し公開している。
3番目の重要な技術革新は、録音と再生の両方を大きく改善した。それは録音と増幅に関する電子工学の進歩である。1922年、AT&Tの製造部門ウェスタン・エレクトリックの研究部門がサウンド・オン・ディスク方式とサウンド・オン・フィルム方式の両方について重点的な研究を開始した。1925年、同社は高感度のコンデンサ・マイクと録音装置を含む大幅に改善された電子音響システムを発表した。同年5月、同社はこれを映画用システムに利用するライセンスを起業家 Walter J. Rich に与えた。彼はヴィタグラフ・スタジオに資金提供しており、その1カ月後にワーナー・ブラザースがその半分の権利を買い取った。1926年4月、ワーナーはAT&Tと映画音響技術に関する独占契約を結び、それが『ドン・ファン』と付随する短編映画製作につながった。この間、ヴァイタフォンだけがAT&Tの特許を独占的に使用でき、ワーナーの発声映画の音質は他社の追随を許さないほど高かった。一方ベル研究所として独立したAT&Tの研究部門は増幅技術を急激に進化させていき、劇場全体にスピーカーで音を響かせることができるシステムを完成させた。その新たな振動コイル型(ダイナミック型)スピーカーシステムがニューヨークのワーナーの劇場に同年7月に設置され、そのシステムに関する特許は『ドン・ファン』公開のわずか2日前の8月4日に出願された。
AT&Tとウェスタン・エレクトリックは同年、映画関連の音響技術の権利を専門に扱う Electrical Research Products Inc. (ERPI) を創設した。ヴァイタフォンはまだ独占的権利を持っていたが、ロイヤリティ支払いが遅れたため、ERPIが実質的な権利を持つことになった。1926年12月31日、ワーナーはフォックス・ケースにウェスタン・エレクトリックのシステムを使用できるサブライセンスを提供し、その代わりにワーナーとERPIがフォックスの関連する収益の一部を受け取る契約を結んだ。3社は関連する特許についてクロスライセンス契約を結んだ。優れた録音/増幅技術はこれによってハリウッドの2つのスタジオで利用可能となった。しかも両スタジオはトーキーの方式が全く異なっていた。この翌年、発声映画が商業的に大きく飛躍することになった。
この年、発声映画はあらゆる既知の有名人を利用して大々的に宣伝された。1927年5月20日、ニューヨークのロキシー劇場で同日早朝に大西洋横断飛行に旅立ったチャールズ・リンドバーグの離陸のニュース映画をフォックスのムービートーンで上映した。また6月にはリンドバーグが帰還し、ニューヨークやワシントンD.C.で歓迎される様子を同じくフォックスの発声ニュース映画で伝えた。これらは今日までに最も賞賛された発声映画とされている。フォックスは同年5月に台詞を同期させたハリウッド初の短編劇映画 They're Coming to Get Me(主演はコメディアンの Chic Sale)を公開している。フォックスは『第七天国』などの無声映画のヒット作を公開した後の9月23日、ムービートーン初のオリジナル長編『サンライズ』(監督F・W・ムルナウ)を公開した。『ドン・ファン』と同様、フィルムのサウンドトラックには音楽と効果音が入っており、群衆シーンでは特に誰のものともわからない声も入っていた。
商業発声映画については、『ジャズ・シンガー』のヒットの前後で状況は特に変化しなかった。(落伍したPDCを除く)4大スタジオとユナイテッド・アーティスツといった大手が映画製作現場と劇場のための機器を更新すべくERPIと契約するのは1928年5月以降のことである。当初、ERPIは全ての契約劇場をヴァイタフォン対応にし、その多くでムービートーンの上映もできるようにした。両方のテクノロジーにアクセス可能になっても、多くのハリウッドの映画会社はまだ発声映画を製作しなかった。ワーナー・ブラザースを除くスタジオは部分トーキーですらなかなかリリースしようとしなかったが、低予算指向の Film Booking Offices of America (FBO) が『ジャズ・シンガー』から8カ月後の1928年6月17日にやっと『夢想の犯罪 (The Perfect Crime) 』を公開した。FBOはウェスタン・エレクトリックと競合するゼネラル・エレクトリックのRCA部門が実質的に支配しており、同社は新たなサウンド・オン・フィルム方式RCAフォトフォン(英語版)を売り込もうとしていた。可変密度方式だったフォックス・ケースのムービートーンやド・フォレストのフォノフィルムとは異なり、RCAフォトフォンは可変領域方式であり、音声信号を最終的にフィルムに焼き付ける段階を改良したものである。サウンド・オン・フィルム方式では、音声信号を電灯の光の強さに変換し、その光を使ってフィルムに信号を焼き付ける。可変密度方式はフィルム上の帯の明暗の変化で音声信号の変化を表し、可変領域方式ではその帯の幅を変化させる。同年10月までに、FBO-RCA同盟はハリウッドで最新のスタジオRKO創設にこぎつけた。
その間、ワーナー・ブラザースは『ジャズ・シンガー』ほどではないが高収益な3本のトーキーを公開した。同年3月には『テンダーロイン (en) 』が公開されている。この映画をワーナーは全ての台詞の音声が入っていると宣伝したが、台詞があるのは88分のうち15分だけだった。4月には 『祖国の叫び (Glorious Betsy)』、5月には The Lion and the Mouse(こちらは台詞部分が31分ある)を公開した。1928年7月6日には初の完全トーキー長編映画 『紐育の灯』 が公開された。ワーナーがこの映画にかけた制作費はわずか2万3千ドルだったが、興行収入は125万2千ドルで50倍以上の利益を得た。9月には再びアル・ジョンソンを主演に起用した部分トーキー『シンギング・フール (en) 』を公開し、『ジャズ・シンガー』の倍の収益を得た。このジョルソンの2本目の映画は、ミュージカル映画が歌を全国的にヒットさせる力があることを示した。9カ月以内にジョルソンの楽曲 "Sonny Boy" はレコードが200万枚、楽譜が125万枚売れた。同じく1928年9月には ポール・テリー が同期音声つきアニメ映画 Dinner Time を公開した。これを見たウォルト・ディズニーはすぐさま発声映画の製作にとりかかり、ミッキーマウスの短編映画『蒸気船ウィリー』を公開した。しかし、これらの短編アニメーション作品が公開される2年前の1926年にマックス・フライシャーがセリフと映像を完全にシンクロさせた短編トーキーアニメーション映画『なつかしいケンタッキーの我が家(原題:My Old Kentucky Home)』をすでに公開していた。
1929年、ヨーロッパの映画会社の多くはトーキーへの転換のためハリウッドと手を組んだ。このころのヨーロッパのトーキーは外国で製作されることが多かった。これは、自国のスタジオをトーキー用に改修していたという面もあるが、同時に自国語以外の外国語で映画を製作して海外に売るという思惑もあった。ヨーロッパ初の2つの長編トーキーのうちの1つ The Crimson Circle は、複雑な経緯で国際的な製作となった。元々は監督 Friedrich Zelnik により Efzet-Film が製作した無声映画 Der Rote Kreis としてドイツで1928年に公開された。イギリスの British Sound Film Productions (BSFP) がこれに後から英語の台詞を追加した。BSFPはド・フォレストのフォノフィルムの子会社である。これが1929年3月にイギリスで公開された。同時期に公開された The Clue of the New Pin はイギリスで全編製作された部分トーキーで British Photophone と呼ばれるサウンド・オン・ディスク方式を使用している。Black Waters はイギリスの映画会社がハリウッドで全編製作したもので、ウェスタン・エレクトリックのサウンド・オン・フィルム方式を採用していた。これらはいずれも大きな影響を与えることはなかった。
ヨーロッパ映画で最初に成功したトーキーとしては、イギリスの『恐喝』がある。監督は当時29歳のアルフレッド・ヒッチコックで、この映画はロンドンで1929年6月21日に公開された。本来は無声映画として撮影されたが、会話シーンを追加し、音楽や効果音を追加して公開となった。British International Pictures (BIP) による製作で、録音はRCAフォトフォンで行われた。実は、ゼネラル・エレクトリックは Tobis-Klangfilm の市場に関与するためにその親会社であるAEGの株式を取得していた。『恐喝』はかなりのヒット作となった。評論家も概ね好意的だった。例えば辛口で知られた評論家 Hugh Castle は「我々が見たこともない音と静けさのおそらく最も知的な混合物」と評した。
1929年8月23日、オーストリア初のトーキー G’schichten aus der Steiermark が公開された。9月30日には全編ドイツ製作の長編トーキー Das Land ohne Frauen が公開になった。Tobis Filmkunst の製作で、全体の4分の1ほどに台詞があり、音楽や効果音とはかぶらないよう厳密に分離されていた。ただし、興行的には失敗した。スウェーデン初のトーキー Konstgjorda Svensson は同年10月14日に公開された。その8日後、パリ近郊のスタジオで撮影された Le Collier de la reine が公開されている。元々は無声映画として撮影されたもので、Tobisにより音楽と会話シーンが1カ所だけ追加された。これがフランスの長編映画初の会話シーンとなった。10月31日に公開となった Les Trois masques は、パテ-ナタン・フィルムの製作である。これがフランス初の長編トーキーとされることが多いが、撮影はロンドン郊外エルストリーのスタジオ(『恐喝』と同じ)で行われた。その制作会社はRCAフォトフォンと契約を結んでいた。同じスタジオで数週間後に La Route est belle も撮影されている。パリの映画スタジオの多くはトーキー対応の改修が1930年まで伸び、それまでフランスのトーキーの多くはドイツで撮影された。ドイツ初の完全トーキー長編 Atlantik は10月28日にベルリンで公開された。これもロンドン郊外のエルストリーで撮影された映画であり、Les Trois masques や La Route est belle がフランス的と言えるほどドイツ映画らしくなかった。BIPはイギリス人脚本家とドイツ人監督で英語版の Atlantic を製作した。完全なドイツ製トーキー Dich hab ich geliebt はその3.5週間後に公開され、アメリカ合衆国で Because I Loved You として公開され、アメリカで公開された初のドイツ製トーキーとなった。
1930年、サウンド・オン・ディスク方式のポーランド初のトーキー Moralność pani Dulskiej が3月に、完全トーキー Niebezpieczny romans が10月に公開された。イタリアの映画界はかつて盛んだったが1920年代末には瀕死の状態だった。イタリア初のトーキー La Canzone dell'amore は1930年10月に公開され、イタリア映画界は約2年で復活を遂げることになった。最初のチェコ語のトーキー Tonka Šibenice も1930年に公開された。ヨーロッパ映画界ではマイナーなベルギー(フランス語)、デンマーク、ギリシャ、ルーマニアといった国々でもトーキーを制作している。ソビエト連邦では1930年12月に公開されたジガ・ヴェルトフのノンフィクション Entuziazm が最初だが、これは台詞がなく実験的なものだった。Abram Room のドキュメンタリー映画 Plan velikikh rabot には音楽とナレーションが入っている。これらはいずれも独自のサウンド・オン・フィルム方式を使っていた。当時、世界中に200ものトーキーの方式が乱立していた。1931年6月に公開された Nikolai Ekk の劇映画 Putevka v zhizn がソビエト連邦初の完全トーキーとなった。
ヨーロッパでは劇場のトーキー設備設置が映画製作よりも遅れたため、サイレント版も並行して制作するか、トーキーを単に音なしで上映した。イギリスでは1930年末までに60%の劇場がトーキー対応となった。これはアメリカ合衆国とほぼ同程度のペースである。一方フランスでは1932年後半になっても半数以上の劇場がトーキー未対応だった。Colin G. Crisp によれば、フランスの映画業界は1935年ごろまで無声映画が芸術としても商業としてもまだまだ見込みがあると見ており、しばしば無声映画への回帰が起きるのではないかという懸念を表明していたという。このような見方はソビエト連邦でも根強かった。1933年5月の時点でソビエト連邦内の映写機にトーキー設備が設置されたのは2%ほどだった。
David Bordwell によれば、トーキー技術は迅速に進化していった。「1932年から1935年までに(ウェスタン・エレクトリックとRCAは)指向性マイクロフォンを開発し、フィルム上に録音できる周波数領域を拡大させ、雑音を低減させ……音量の大小の範囲を拡大した」これらの技術革新は芸術性の進歩も意味していた。「録音の忠実度が向上したことで……声質やその高低や大小の幅が広がり、演劇的な可能性が高まった」 もう1つの基本的問題は、1952年の映画『雨に唄えば』で扱われているように、無声映画時代の一部の俳優の声が魅力的でなかったという問題である。この問題は強調されすぎる傾向があるが、俳優の演技力だけでなく声質や歌の才能がキャスティングに影響するのではないかという懸念があった。1935年までに、ポストプロダクションにおけるアフレコの技術が確立され、別の俳優の声をあてることも可能になった。1936年、RCAは紫外線録音システムを導入し、歯擦音や高音の再現性が増した。
ハリウッドでのトーキーへの本格的移行により、当初並存していた2つの方式は速やかに1つに収束した。1930年から31年にかけて、サウンド・オン・ディスク方式を採用していた主な映画会社であるワーナー・ブラザースと First National もサウンド・オン・フィルム方式に切り替えた。しかしヴァイタフォン対応の設備を設置した映画館が多かったため、ハリウッドでは数年間、サウンド・オン・フィルム方式で映画を製作すると同時にサウンド・オン・ディスク方式用のレコード盤も生産して配給していた。フォックスのムービートーンもヴァイタフォンの後を追うように使われなくなり、残った方式はRCAの可変領域方式(フォトフォン)とムービートーンを改良したウェスタン・エレクトリックの可変密度方式だけとなった。主にRCAの働きかけにより、両社の親会社(AT&TとGE)は両方式の互換性を確保することを決め、一方の方式で製作したフィルムをもう一方の方式の映写機でも上映できるようにした。これにより残る大きな問題は Tobis-Klangfilmだけとなった。ウェスタン・エレクトリックは1930年5月、オーストリアでトリ=エルゴン特許の適用範囲をある程度制限するという判決を勝ち取り、Tobis-Klangfilm を交渉のテーブルに着かせることに成功した。翌月クロスライセンス協定が結ばれ、再生時の完全な互換性を確保し、世界を3分割して機器を販売する協定が結ばれた。当時の報告書には次のように記載されている。
トーキーが映画産業のブームをもたらしている間、当時のハリウッド俳優にとっては雇用上の逆効果を生み出していた。舞台経験のない俳優は突然トーキーに対応できるか否かについて疑問を持たれるようになった。先述したように、訛りがひどい者や容姿と声が合っていない者も無声映画時代にはその欠点を隠せていたが、特に危険な状態に追い込まれた。無声映画の大スターだったノーマ・タルマッジは、そのようにして事実上映画俳優をやめることになった。スイスの有名な俳優エミール・ヤニングスは、トーキーのせいでヨーロッパに戻ることになった。ジョン・ギルバートは声は悪くなかったが、スターとしての風格にあわない声と評され、人気が急落した。観衆は無声映画時代のスターを古風と見なす傾向があり、それはトーキー時代にも適応できる才能を持っていた者に対しても変わらなかった。1920年代に大人気喜劇スターだったハロルド・ロイドの人気も急速に低下した。リリアン・ギッシュは舞台に移り、他の多くの大スターは間もなく引退した。例えば、グロリア・スワンソンやハリウッドでも有名なカップルだったダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードである。女優ルイーズ・ブルックスは、映画会社側がトーキーへの適性を口実にして大スターに支払うギャランティを下げ、いやなら辞めろという態度で俳優たちに迫ったという面もあると後に述懐している。同様にクララ・ボウも声が合わないとされてハリウッドを去ることになったが、真の問題は映画会社経営陣との衝突であり、映画史家 David Thomson は男優ならば平凡ともいえるそのライフスタイルに対して映画会社側が「ブルジョワ的偽善性による反発」で対立したのだとした。バスター・キートンは新たな媒体を探究することにやぶさかではなかったが、MGMはトーキーを導入した際にキートンの従来の映画スタッフを解体し、キートンが創造的な影響力を発揮できないようにした。キートンの初期のトーキー作品はそれなりの利益をもたらしたが、芸術的には見るべきところがない。
ハリウッドの大手スタジオは海外と同様に国内の競合他社についても優位に立った。歴史家 Richard B. Jewell は「トーキー革命は、トーキー機器購入のための借金を返済できなくなった多くの弱小映画会社とプロデューサーを破滅させた」としている。トーキー時代の到来と世界恐慌が重なったため、弱小会社の倒産が相次ぎ、アメリカの映画業界はビッグ5と呼ばれる大手映画会社(MGM、パラマウント、フォックス、ワーナー、RKO)と準大手3社(コロンビア、ユニバーサル、ユナイテッド・アーティスツ)が支配する構造が1950年代まで続くことになった。同じ現象は日本でも発生し独立プロの多くが大手の傘下となった。歴史家 Thomas Schatz によれば、その副作用として大手各社が製作体制を合理化する中で各社独自の性格が生まれ、スタジオ・システムが確立していったとしている。
インドの映画界も同様に急激な変化を経験した。当時の配給会社のある人物は「トーキーの到来と共に、インド映画は独自に明確な地位を築いた。その原動力は音楽である」という。インドのトーキーは当初からミュージカルが主流であり、最初の Alam Ara では7曲の歌が、翌年の Indrasabha では70曲もの歌が唄われている。ヨーロッパではハリウッドとの終わりのない戦いが繰り広げられていたが、インドでは Alam Ara から10年後には90%以上が国産の映画を上映していた。
インドの初期のトーキーはほとんどがムンバイで撮影されたが、トーキー制作はすぐに様々な言語が使われている国土のあちこちに拡散していった。Alam Ara が1931年3月に公開された数週間後、コルカタの Madan Pictures はヒンディー語の Shirin Farhad とベンガル語の Jamai Sasthi を公開した。翌年、パンジャーブのラホールでヒンドゥスターニー語の Heer Ranjha が制作された。1934年に公開されたカンナダ語初のトーキー Sati Sulochana は、マハーラーシュトラ州コールハープルで撮影された。タミル語初のトーキー Srinivasa Kalyanamはタミル・ナードゥ州で撮影された。インドではトーキーが導入されてからトーキーに完全に移行するまでの期間が非常に短かった。1932年には多くの長編トーキーが公開され、1934年には全長編映画172本のうち164本がトーキーになっていた。1934年以降(1952年を除いて)インドは映画製作本数で常に上位3位以内をキープしてきた。
芸術としての映画
イギリスの映画学者 Paul Rotha は1930年の The Film Till Now の中で「音声がスクリーン上の映像と同期した映画は、映画本来の目的とはかけ離れたものである。それは映画本来の用途を退行させ破壊する誤った試みであり、真の映画に含めることはできない」と宣言した。このような意見は映画を芸術形態の1つと見ていた当時の人々としては珍しいものではない。ヨーロッパでトーキーを製作して成功を収めていたアルフレッド・ヒッチコックも「無声映画は映画の最も純粋な形態だ」とし、初期のトーキーの多くが「人々が会話する様子を写した写真」とほとんど違わないと断言して憚らなかった。ドイツでは舞台や映画の監督であるマックス・ラインハルトがトーキーについて「舞台演劇をスクリーンに持ってきたもので(中略)独自の芸術形態だった映画を演劇の下位の分野に貶めるもので(中略)絵画の複製のようなものである」と語っている。
映画史家や映画ファンの多くは(当時も後世も)、1920年代後半に無声映画が芸術として最高潮に達し、その後のトーキーは芸術性という面ではそれに遥かに及ばなかったという。例えば、映画は時代と共に忘れ去られるものだが、Time Out 誌が1995年に行った100周年を記念した映画の人気投票トップ100には、無声映画が11本も入っていた。トーキーが盛んになったのは1929年からだが、1929年から1933年までの映画で上記のトップ100に入った映画は全て無声映画(1929年の『パンドラの箱』、1930年の『大地』、1931年の『街の灯』)だった(『街の灯』は音楽と効果音のサウンドトラック付きだが、台詞がないため一般に無声映画に分類されている)。この人気投票で最初にランクインしているトーキーは、ジャン・ヴィゴ監督のフランス映画 『アタラント号』(1934年)である。ハリウッド映画のトーキーでは、ハワード・ホークス監督の1938年の『赤ちゃん教育』が最初である。
一般的にも大きく賞賛された最初の長編トーキーとしては、1930年4月1日に公開された『嘆きの天使』がある。この映画はジョセフ・フォン・スタンバーグが監督したもので、ベルリンのUFAスタジオが英語版とドイツ語版を製作した。アメリカ映画で最初に広く賞賛されたトーキーはルイス・マイルストン監督の『西部戦線異状なし』で、同年4月21日に公開された。他に国際的に賞賛されたトーキーとしては、ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督の Westfront 1918 がある。歴史家 Anton Kaes はこれを「新たな迫真性」の一例だとし、「無声映画の催眠的な惹きつけ方の強調や光と影の象徴性、さらには寓意的人物像を好む時代錯誤性」によるものとした。文化史研究家らは、1930年末に公開されたルイス・ブニュエル監督のフランス映画『黄金時代』を当時最高の芸術映画だとしている。当時、その性的で不敬で反ブルジョワ的な内容が一種のスキャンダルを巻き起こした。パリ警察はこれをすぐに上映禁止とし、50年間上映できなかった。初期のトーキーで今では多くの映画史家から傑作と呼ばれている作品が、1931年5月11日に公開されたフリッツ・ラング監督の『M』である。ロジャー・エバートは「多くの初期のトーキーが常に台詞を入れようとしていたのに対して、ラングはカメラを通りや安酒場でうろつかせ、ネズミの視点を表現した」と評している。
1929年3月12日、ドイツ初の長編トーキーとしてヴァルター・ルットマン監督の Melodie der Welt が公開された。Tobis Filmkunst の最初の作品で、劇映画ではなく海運会社をスポンサーとするドキュメンタリー映画である。この長編トーキーは、トーキーの芸術的可能性を探究しようとした最初の映画である。映画史家 William Moritz はこの映画について「複雑でダイナミックでテンポが速く……様々な国々の似たような文化を並置しつつ、見事な管弦楽曲を流し……映像に同期した効果音を多用している」と述べている。当時の作曲家 Lou Lichtveld はこの映画に感銘を受けたアーティストの1人である。彼は「Melodie der Welt は世界初の重要な音声付ドキュメンタリーであり、音楽やそれ以外の音が1つに合成された最初の作品であり、音と映像が同一の衝動によって制御された最初の作品である」と述べた。Melodie der Welt はオランダ人の前衛映画製作者ヨリス・イヴェンスの産業映画 Philips Radio(1931年)に直接的影響を及ぼした。Philips Radio での作曲を手がけた Lichtveld は次のように述べている。
類似の技法は喜劇映画の一般的テクニックの1つとなったが、それは特殊効果または「色」としてであって、クレールが達成したような包括的かつ非自然主義的デザインの基盤としてではない。喜劇以外の分野では、Melodie der Welt や『ル・ミリオン』で例示されるような音の遊びは商業映画にはほとんど見られない。特にハリウッドでは音響はそれぞれのジャンル毎の映画製作システムにしっかり組み込まれており、ストーリーテリングという伝統的目的にそって映画が製作されている。このような状況を1928年に予見していたのが映画芸術科学アカデミーの Frank Woods である。彼は「将来のトーキーは無声映画によって発展してきた従来からの手法に沿って製作されるだろう……会話シーンは別の取り扱いが必要となる可能性があるが、映画製作の大筋は無声映画と同じになるだろう」としていた。
^(Robertson 2001, p. 168) では、ドイツの発明家で映画製作者のオスカー・メスターが1896年9月にフィルム映写式の発声映画を始めたとしているが、これは間違いと見られる。(Koerber 1996, p. 53) はメスターが(食堂の裏手にあった)Cinema Unter den Linden を買い取り、1896年9月21日に自分の会社として再開した点を指摘している。1903年より以前にメスターが発声映画を始めたという記述はRobertsonのもの以外には存在しない。
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This system used an operator adjusted non-linkage form of primitive synchronization. The scenes to be shown were first filmed, and then the performers recorded their dialogue or songs on the Lioretograph (usually a Le Éclat concert cylinder format phonograph) trying to match tempo with the projected filmed performance. In showing the films, synchronization of sorts was achieved by adjusting the hand cranked film projector's speed to match the phonograph. the projectionist was equipped with a telephone through which he listened to the phonograph which was located in the orchestra pit.
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^ごく一部の文献は公開年を1923年としているが、近年この映画について論じている2人の歴史家(Crafton 1997, p. 66;Hijiya 1992, p. 103)はどちらも1924年と記している。フリッツ・ラング監督の Siegfried(1924年)がドイツで公開された翌年にアメリカに持ち込まれた際に、ド・フォレストが楽曲の同期録音をしたという主張もあり(Geduld 1975, p. 100;Crafton 1997, pp. 66, 564)、これが全編同期録音した世界初の長編映画とも言われている。しかし、この映画の録音がどこで行われたのか、音声を同期させる方式で公開されたのか確定していない。そのような録音が可能だった機会があったのかと言えば、1925年8月25日、映画公開前夜にニューヨークで全スコアのオーケストラによる生演奏が行われている。
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^Glancy 1995, p. 4(オンライン)。それ以前のワーナー・ブラザースの最大のヒット作は『ドン・ファン』で169万3000ドルを売り上げた。 歴史家 Douglas Crafton (1997) によれば、『ジャズ・シンガー』の国内総興行収入は軽く見積もっても197万ドルだという(Crafton 1997, p. 528)。この数字だけでもワーナーにとっては新記録である。Craftonは『ジャズ・シンガー』が「当時の最高の映画に比べれば2番手か3番手に位置していた」(Crafton 1997, p. 529)としているが、やや歪んだ見方である。確かにその10年間の上位6本のヒット映画には太刀打ちできないが、1927年の高収益映画の上位3本には入っており、他の2本である『キング・オブ・キングス (en) 』や『つばさ』と比較しても収益性に遜色がない。また、その後のヴァイタフォン映画4本に比べると倍以上の収益だったことは明らかである。Glancyの分析によると、ワーナーのその後の3本の映画はそれぞれ100万ドル未満の収益で、4本目の 紐育の灯は125万ドル強だった。
^Allen, Bob (autumn 1997). “Why The Jazz Singer?”. AMPS Newsletter. Association of Motion Picture Sound. 2009年12月12日閲覧。[リンク切れ] なお、アレンも『ジャズ・シンガー』は確かにヒットしたが「最高傑作というほどではない」という点を強調している。
^1931年に、ハリウッドで意図的に台詞を避けた映画が2本製作されている。チャールズ・チャップリンの『街の灯』(ユナイテッド・アーティスツ)、F・W・ムルナウとロバート・フラハティの『タブウ』(パラマウント)である。アメリカ合衆国で無声映画として製作され広く公開された最後の映画は1930年4月に Biltmore Pictures が公開した『タルマッヂの貧乏長者 (The Poor Millionaire) 』である。(Robertson 2001, p. 173)
^Saunders, Thomas J. (1994). Hollywood in Berlin:American Cinema and Weimar Germany. Berkeley, Los Angeles, and London:University of California Press. ISBN 0-520-08354-7 によれば、ベルリンでも同月に公開されているが、無声映画としての公開だった。ベルリンで『ジャズ・シンガー』が完全な形で公開されたのは1929年6月のことである(外部リンクの The Singing Fool 参照)。パリでは1929年1月に音付きで公開された(Crisp 1997, p. 101)。
^ちなみに IMDb.com では Der Rote Kreis/The Crimson Circle の制作会社を間違って British International Pictures (BIP) としており、Zelnik の名の綴りも間違って "Frederic" としている。本当にBIPが製作した Kitty もイギリス初のトーキーの候補とされることがあるが、この映画は1928年に無声映画として公開され、台詞を追加録音するために俳優らがニューヨークに行き、1929年6月に再公開された。
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^Robertson 2001, pp. 10–14. Robertsonはスイスでも1930年にトーキーを制作したと主張しているが、他の文献では確認できていない。フィンランド、ハンガリー、ノルウェー、ポルトガル、トルコでは1931年に初のトーキーが制作された。アイルランド(英語)、スペイン、スロバキア語のトーキーは1932年、オランダ初のトーキーは1933年、ブルガリアは1934年である。ちなみにアメリカ大陸では、カナダ初のトーキー North of '49 は1929年公開で、前年の無声映画 His Destiny のリメイクである。ブラジル初のトーキー Acabaram-se os otários も1929年である。同年、ニューヨークでイディッシュ語初のトーキー East Side Sadie(元は無声映画)が制作され、それに Ad Mosay が続いた(Crafton 1997, p. 414)。メキシコ初の(スペイン語の)トーキー Más fuerte que el deber の公開年は1930年または1931年で、文献によって記述が異なる。アルゼンチンは1931年、チリは1934年である。Robertsonはキューバ初の長編トーキーを1930年の El Caballero de Max だとしているが、他の多くの文献は1937年の La Serpiente roja としている。1931年にはアフリカ大陸でも初のトーキーが制作されている(南アフリカの Mocdetjie でアフリカーンス語)。 その後エジプト(アラビア語)の Onchoudet el Fouad(1932年)、モロッコ(フランス語)の Itto(1934年)が続いた。
^Rollberg 2008, pp. xxvii, 9, 174, 585, 669–670, 679, 733 いくつかの文献は Yuli Raizman が監督した Zemlya zhazhdet をソビエト連邦初のトーキーとしている。これは、1930年に無声映画として公開され、翌年に音楽と効果音だけを付けて再公開されたものである(Rollberg 2008, p. 562)。
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