ラジオドラマ(英: radio drama、独: Hörspiel)は、音声のみのメディア(主にラジオ放送)上で制作および発表されるドラマのことである。放送劇(ほうそうげき)、オーディオドラマ、サウンドドラマ、声劇(こえげき)とも。他にも、同種の用語としてボイスドラマがあるが、こちらは音系の同人活動やネット声優に関連して製作されるメディアを限定して指すことが多い。詳細は#ボイスドラマを参照。
テレビが普及していない1960年代までにおける、放送文化の重要なコンテンツであったが、その後は減少傾向にある。
放送番組や、ウェブ上の公開作品として制作されることがほとんどであるが、この項目では放送における広告用に制作されたものも含む。いわゆる「ラジメーション」についても、この項目で扱う。
主に俳優や声優が、声のみで役柄を演じる。聴取者に対し、映像なしで、情景を含む作中世界のイメージをいかに想起させるかが問われるため、演者の能力とともに、演出(効果音の作り方・出し方といった、いわゆる音作り)が重要になる。
脚本は、既に発表されている小説、漫画などを原作とするものもあれば、ラジオドラマ用に特別に書き下ろされるものもある(後述)。
アメリカではラジオ放送が1920年から始まった。映画へのサウンド・システムの導入に伴って、1920年代後半から映画とラジオとの産業間の関係がみられるようになり、ラジオでトーキー映画の宣伝が行われるようになったが映画俳優がラジオ番組に出演することは長い間避けられていた。しかし、1933年頃にはラジオ出身のコメディアンや歌手が映画で主演を務めたり、映画俳優がラジオ番組に出演するなど変化が現れた。
1934年10月、ブロードウェイの舞台劇をラジオドラマ化する『ラックス・ラジオ・シアター』が始まった。この番組はニューヨークのラジオ・シティにあるスタジオから放送された各週完結のラジオドラマで第一回は「第七天国」(ジョン・ボールズ、ミリアム・ホプキンズ主演)が放送された。1936年、番組の放送拠点がニューヨークからロサンゼルスに移ったことで、ハリウッドの著名な映画スターが常時出演するようになり番組は1955年まで約20年間続いた。
また、1939年には映画俳優協会による『スクリーン・ギルド・シアター』が始まり1952年まで続いた。このほか映画関係者によって『ハリウッド・プレミア』、『アカデミー賞シアター』、『ドレフト・スター劇場』、『ハリウッド・スタータイム』、『映画監督劇場』などのラジオドラマの番組が設けられた。
日本では、単に演劇の音声を放送波に乗せた、という意味でなら、1925年のラジオ放送の開始と同時にその歴史が始まったといっていい。試験放送の第一日目(3月1日)および本放送の第一日目(3月22日)には、来日中だったイタリア歌劇団(正式名称不明)による『フィデリオ』『リゴレット』『魔笛』の歌唱部分がそれぞれ放送されている。また、試験放送期間中の3月11日には、活動弁士の熊岡天童が「映画物語」と称して、『噫無情』をひとりで演じている。
同年7月12日、5代目中村歌右衛門、5代目中村福助、3代目中村時蔵らが坪内逍遥作の歌舞伎『桐一葉』の一部を「ラジオ劇」と称して演じた。その翌週には、新派の井上正夫と初代水谷八重子による『大尉の娘』が放送された。いずれにせよ、これらの「ラジオ劇」は舞台の演技や演出をそのままスタジオ内で再現しただけのもので、演出には改良の余地があった。
日本において、初の「本格的ラジオドラマ」とみなされているのは、同年8月13日放送の『炭坑の中』である。イギリスのBBCで放送されたリチャード・ヒューズ脚本の『危機』を小山内薫が翻訳し、小山内率いる築地小劇場のメンバーが出演した。本格と評されるゆえんは、聴者に臨場感をもたらす音響効果がふんだんに用いられるという、現代に通じる演出要素が備わっていたことである。この演出は、築地小劇場の舞台音響を担当していた和田精が担当した。和田は、日本の演劇における音響効果の第一人者であり、それまでに様々な装置を開発するなどした実績を持ち、ラジオスタジオにおいてその技術を応用した。
『炭坑の中』の放送では、前説でアナウンサーが「電気を消してお聴きください」と言うと、当時のNHK局舎のあった愛宕山から見える町の明かりがポツリポツリと消えていったという逸話が残っている。
『炭坑の中』は大きな反響を呼び、ラジオドラマが放送のコンテンツとして重要な位置を占めると確信した社団法人日本放送協会は、主要な小説家に500円の原稿料を与え(当時の500円は1930年換算で現在の約100万円である)単発作品の脚本執筆を次々に依頼した(これらは俗に「500円ドラマ」と呼ばれた)。演劇界では、これに呼応する形で上述の井上、小山内や、長田幹彦らを中心に「ラジオドラマ研究会」が結成された。1950年代には、中村真一郎や花田清輝のような、いわゆる純文学に属する作家たちが多くラジオドラマを手がけ、単なる台詞を語るのではなく、音楽も含めた抽象的な表現の可能性を探った。この試みは外国からも注目され、東ヨーロッパ諸国の放送局では、中村たちの脚本を翻訳して、放送したり、研究材料にしたりしたという。
NHKではラジオドラマ専門の俳優である「ラジオ俳優」を養成して、東京放送劇団を発足させ、これが声優の始まりとされている。1970年代後半に始まる第2次声優ブームに、ニッポン放送などの民間放送が呼応し、漫画やアニメーション、コンピュータゲームなどを原作としたメディアミックス展開をなすコンテンツとしてのラジオドラマが盛んに制作されるようになった。2000年代中期以降は、漫画やゲームを原作とする作品がアニメ化される際、その前段階にラジオドラマが制作される傾向がある。
近年、いわゆるネット声優と呼ばれるアマチュアによる、インターネット上に限定して公開されるオリジナルオーディオドラマが作られるようになっており、それらは同人文化のボイスドラマの一環であるといえる。
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臨場感を出すためにバイノーラル録音が利用されることもある。
近年ヘッドホン聴取を目的とした立体音響の作品の研究も進んでいます。
バイノーラルや立体音響の作品制作技法の話が雑誌FDIに連載されています。
商品化される際には、「ドラマCD」という名目で発売されている。現在は商品化を当初から前提として企画される作品が多く、実質的にラジオ放送がドラマCDの発売前先行オンエアともいえる。
商品化の際に、ラジオで先行公開されたドラマ(シナリオの加筆修正が加えられるケースもある)をラジオ(ドラマ)CD、ラジオで公開することなく発売されるものをドラマCDと区別して呼ぶ事もある。ビクターは商品化の際「絵のない映画」だとしてCDシネマの名称を用いているケースがある。
ラジオDJコーナーを集めた(ドラマコーナーのない)CDを含め、ラジオCDと総称している。
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2020年10月時点で放送されているもの。
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ボイスドラマ (Voice Drama) とは、音声や音だけで物語などを表現したものでありラジオドラマなどと同種の表現形態であるが、特に同人による音声作品・メディアをこのように称することが多い。
「ラジメーション」とは、アニラジのコーナーなどとして制作された、アニメやゲームなどのサブストーリーを展開させるラジオドラマの呼称である。「ラジメーション」の名称は、「ラジオ」と「アニメーション」を合わせた造語である。1981年5月17日(日)に草月ホールにて開催された 『週刊ヤングジャンプ創刊2周年記念祭り』にて『ラジメーションコンサート』としてニッポン放送キリンラジオ劇場で放送されたわたしの沖田くんの原作の画像をスクリーンに上映しキャストが演じるのに使われたのが始まりで、ラジオ番組としては1982年1月3日、ニッポン放送などで放送された『オールナイトニッポン新春アニメスペシャル』で聖悠紀原作のSF漫画『超人ロック』シリーズの一編「炎の虎」のラジオドラマを放送するに際しこの名称がはじめて使用された。当時のプロデューサー・上野修(ドン上野)の考案とされる。以降数作品が制作された後、数年間この呼称は用いられなかったが、1991年の『ラジメーション・魔神英雄伝ワタル3』のラジオ放送以降この名称が定着した。当時は作品がオーディオソフト化されず、ニッポン放送も商標登録を行なわなかったため、他作品や他ラジオ局でも使われて、アニメ原作のラジオドラマを指す一般名詞化した。ワタルシリーズ固有のモノ・文化放送やビクター発売のアニメ系ドラマ固有のモノと誤解も生まれたが、そのようなことはない。