ル・コルビュジエ | |
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1964年撮影 | |
生誕 |
1887年10月6日 スイス、ラ・ショー=ド=フォン |
死没 |
1965年8月27日(77歳没) フランス、ロクブリュヌ=カップ=マルタン |
国籍 | スイス / フランス |
職業 | 建築家 |
受賞 | |
建築物 | |
プロジェクト |
ル・コルビュジエ(Le Corbusier[注 1]、1887年10月6日 - 1965年8月27日)は、スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ[注 2]=グリ (Charles-Édouard Jeanneret-Gris)。
モダニズム建築の巨匠といわれ、特にフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠として位置づけられる場合もある(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とみなすこともある)。
ル・コルビュジエは1887年10月6日、スイス北西部のフランス語圏のラ・ショー=ド=フォンに時計の文字盤職人の父エデゥアールとピアノ教師の母マリーの次男として生まれた。彼はフレーベル方式を採用した幼稚園に通った。家業を継ぐために時計職人を養成する地元の装飾美術学校で彫刻と彫金を学んだが、専門的な大学教育は受けていない。ル・コルビュジエは時計職人の道を進むつもりだったが、当時時計産業は斜陽化しつつあり、さらにル・コルビュジエは視力が非常に弱く、精密な加工を必要とする時計職人としては重大なハンデを背負っていたため、徐々に別の道へ進むことを模索するようになっていった。
美術学校在学中の1907年に、ル・コルビュジエの才能を見いだした校長のシャルル・レプラトニエの勧めで、建築家のルネ・シャパラと共に最初の住宅『ファレ邸』の設計を手がけている。1908年にパリへ行き、鉄筋コンクリート建築の先駆者であるオーギュスト・ペレの事務所に、1910年にはドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、短期間ではあったが実地で建築を学んだ。
1911年から半年かけてベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを巡る東方への旅へ出た。ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で教鞭を執った後、1914年に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表。1917年にパリへ行き、2年ほど鉄筋コンクリート会社に勤めた。1920年にダダの詩人のポール・デルメ、ピュリスムの画家のアメデエ・オザンファンと共に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(L'esprit Nouveau、表記は「レスプリ・ヌーボー」とも。) を創刊。この頃からル・コルビュジエというペンネームを用いた(このペンネームは、祖先の名からつけたものである。)。
ル・コルビュジエは「新しい酒は新しい酒袋に入れよ」(聖書)の言葉を建築に展開し、新しい時代の建築にはレスプリ・ヌーボー(新精神)を取り入れるべきことを提唱した。サヴォア邸はその象徴的な建築である。
1922年に、ペレの下で働いていた従弟のピエール・ジャンヌレと共に事務所を構えた。1923年に『レスプリ・ヌーヴォー』に掲載された自らの記事をまとめた著作『建築をめざして』を発表し、世界中の建築家から注目を集めた。この著作の中の「住宅は住むための機械である (machines à habiter)」という言葉は、彼の建築思想の代表的なものとしてよく引用される。
1925年のパリ万国博覧会(いわゆるアールデコ博)では装飾のない『レスプリ・ヌーヴォー館』を設計し、アール・デコ装飾の展示館が並ぶ中、異彩を放った。また1922年のサロンドートンヌでは『300万人の現代都市』を、1925年にはパリ市街を超高層ビルで建て替える都市改造案『ヴォアザン計画』を、そして1930年には『輝く都市』を発表した。これらは低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であるとするもので、パリでは実現しなかったが、以降の都市計画の考え方に影響を与えた。1927年、ミース・ファン・デル・ローエが中心となり、ヴァイセンホーフで開かれたドイツ工作連盟主催の住宅展(ヴァイセンホーフ・ジードルング)に参加し、2棟の住宅を設計した。
1928年以降に開催されたCIAM(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)では、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ジークフリート・ギーディオン、ガブリエル・ゲヴレキアンらとともに参加し、中心メンバーとして活躍した。CIAMは国際的な近代建築運動の拠点になった。1930年にはイヴォンヌ・ガリと結婚し、また同年フランス国籍を取得した。1931年竣工の『サヴォア邸』はル・コルビュジエの主張する「近代建築の五原則」を典型的に示し、代表作として知られる。1932年にソ連で行われたソビエト宮殿のコンペに応募して敗退したものの、その斬新さは注目を浴び、丹下健三が建築家を志すきっかけにもなっている。1936年にはルシオ・コスタの招聘を受け、ブラジルに滞在し、オスカー・ニーマイヤーと共に旧教育保健省庁舎の設計に携わった。ル・コルビュジエはドイツに協力的なヴィシー政権に与し、ピエール・ジャンヌレはフランスのレジスタンス運動に参加したため、2人は袂を分かつことになったが、戦後再び、チャンディーガルのプロジェクトで協働した。近代建築運動に肯定的なイタリア・ファシスト政権にも接近を試みており、同国が植民地化したエチオピアでの都市建設に参画しようとしたが失敗している。
第二次世界大戦後、かねてよりの主張の実践である「ドミノシステム」に基づく集合住宅『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』(L'unité d'habitation de Marseille) を建設(1947年-1952年)。また1951年からはインド首相であるジャワハルラール・ネルーの依頼を受け、インドに新都市チャンディーガルを建設する際の顧問として都市計画および主要建築物(議会・裁判所・行政庁舎など)の設計に携わった。また、「モデュロール(仏:Modulor)」の理論を提案し、建築の実践の場において機能性あるいは美学の達成への応用とした。
後期の代表作『ロンシャンの礼拝堂』(1955年竣工)はカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、シェル構造の採用など鉄筋コンクリートで可能になった自由な造形を示している。ここでは従来主張していた近代建築の指標である機能性・合理性を超える新たな表現に達した。ドミニコ会派のカトリック信者であるル・コルビュジエは、引き続き『ラ・トゥーレット修道院』の設計についても依頼を受けた(1960年竣工)。この間に『国立西洋美術館』の基本設計のため、1955年に一度来日している。1960年には自らの仕事の記録を公的に保管することを構想し、1962年にはフランス文化相のアンドレ・マルローにこれを認めさせた。1961年にはAIAゴールドメダル、1964年にはレジオンドヌール勲章を相次いで受賞した。
1965年8月27日、南フランスのロクブリュヌ=カップ=マルタンで海水浴中に心臓発作で死去した。78歳没。
名称 | 竣工年 | 所在地 | 国 | 備考 |
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ファレ邸 | 1907年 | ラ・ショー=ド=フォン | スイス | |
ジャクメ邸 | 1908年 | ラ・ショー=ド=フォン | スイス | |
ストッツァー邸 | 1908年 | ラ・ショー=ド=フォン | スイス | |
ジャンヌレ邸 | 1908年 | ラ・ショー=ド=フォン | スイス | |
ファーブル=ジャコ邸 | 1912年 | ル・ロックル | スイス | |
シネマ・スカラ | 1916年 | ラ・ショー=ド=フォン | スイス | |
シュウォブ邸 | 1917年 | ラ・ショー=ド=フォン | スイス | |
給水塔 | 1917年 | ポダンサック | フランス | |
レマン湖の小さな家(母の家) | 1923年 | ヴヴェイ | スイス | 世界遺産 |
エスプリ・ヌーヴォー館 | 1924年 | パリ | フランス | ボローニャに復元 |
アトリエ・オザンファン | 1924年 | パリ | フランス | |
ベスヌス邸 | 1924年 | ヴォークレソン | フランス | |
ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸 | 1924年 | パリ | フランス | 世界遺産 |
ヴォアザン計画 | 1925年 | パリ | フランス | 計画案 |
ペサックの住宅群 | 1925年 | ペサック | フランス | 世界遺産 |
リプチッツ邸 | 1925年 | ブローニュ | フランス | |
テルニジン邸 | 1926年 | ブローニュ | フランス | |
ミスチャニノフ邸 | 1926年 | ブローニュ | フランス | |
人民の家 | 1926年 | パリ | フランス | |
クック邸 | 1927年 | ブローニュ | フランス | |
スタイン邸 | 1927年 | ギャルシュ | フランス | [注 3] |
ヴァイセンホーフ・ジードルングの住宅 | 1927年 | シュツットガルト | ドイツ | 世界遺産 |
ギエット邸 | 1927年 | アントウェルペン | ベルギー | 世界遺産 |
プラネクス邸 | 1928年 | パリ | フランス | |
ムンダネウム | 1929年 | ジュネーブ | スイス | 計画案 |
ソヴィエトパレス | 1931年 | モスクワ | ロシア | 計画案 |
サヴォア邸 | 1931年 | ポワッシー | フランス | 世界遺産 |
マンドロウ邸 | 1931年 | トゥーロン郊外 | フランス | |
ヴェイゾー邸 | 1931年 | カルタゴ | チュニジア | |
スイス学生会館 | 1932年 | パリ | フランス | |
イムーブル・クラルテ(クラルテ集合住宅) | 1932年 | ジュネーブ | スイス | 世界遺産 |
パリ救世軍本部 | 1933年 | パリ | フランス | |
ナンジュセール・エ・コリ通りのアパート(自邸) | 1934年 | パリ | フランス | 世界遺産(ポルト・モリトーの集合住宅) |
ウィークエンドハウス | 1935年 | ラ・セル=サン=クルー | フランス | |
マテの家 | 1935年 | ラ・パルミール | フランス | |
セントロソユーズ | 1935年 | モスクワ | ロシア | |
ブラジル教育保健省 | 1936年 | リオデジャネイロ | ブラジル | 共同設計[注 4] |
国際連合本部ビル | 1947年 | ニューヨーク | アメリカ合衆国 | 計画案 |
クルチェット邸 | 1949年 | ラプラタ | アルゼンチン | 世界遺産 |
デュヴァル織物工場 | 1951年 | サン=ディエ=デ=ヴォージュ | フランス | |
サラバイ邸 | 1951年 | アーメダバード | インド | |
マルセイユのユニテ・ダビタシオン | 1952年 | マルセイユ | フランス | 世界遺産 |
カプ・マルタンの休暇小屋 | 1952年 | カプ・マルタン | フランス | 世界遺産 |
ボートクラブ * | 1953年 | チャンディガール | インド | |
ジャウル邸 | 1955年 | ヌイイ=シュル=セーヌ | フランス | |
ロンシャンの礼拝堂 | 1955年 | ロンシャン | フランス | 世界遺産 |
ルゼのユニテ・ダビタシオン | 1955年 | ルゼ・レ・ナント | フランス | |
高等裁判所 * | 1955年 | チャンディガール | インド | 世界遺産 |
繊維業会館 | 1956年 | アーメダバード | インド | |
ショーダン邸 | 1956年 | アーメダバード | インド | |
コルビュジエ夫妻の墓 | 1957年 | カプ・マルタン | フランス | |
ブリュッセル万博フィリップス館 | 1958年 | ブリュッセル | スイス | |
合同庁舎 * | 1958年 | チャンディガール | インド | 世界遺産 |
美術館 * | 1958年 | チャンディガール | インド | 世界遺産 |
サンスカル・ケンドラ美術館 | 1958年 | アーメダバード | インド | |
ベルリンのユニテ・ダビタシオン | 1958年 | ベルリン | ドイツ | ベルリン国際建築博出展作品 |
ブラジル学生会館 | 1959年 | パリ | フランス | |
ラ・トゥーレット修道院 | 1959年 | リヨン郊外 | フランス | 世界遺産 |
美術学校と建築学校 * | 1959年 | チャンディガール | インド | 世界遺産 |
国立西洋美術館 | 1959年 | 東京都台東区 | 日本 | 基本設計[注 5] 世界遺産 |
議事堂 * | 1962年 | チャンディガール | インド | 世界遺産 |
ローヌ・ライン運河にある閘門 | 1962年 | ミュルーズ郊外 | フランス | |
ブリエ・アン・フォレのユニテ・ダビタシオン | 1963年 | ブリエ=アン=フォレ Briey-en-Forêt | フランス | |
カーペンター視覚芸術センター | 1963年 | ケンブリッジ | アメリカ合衆国 | |
文化会館 ** | 1965年 | フィルミニ | フランス | 世界遺産 |
ル・コルビュジエ・センター | 1967年 | チューリッヒ | スイス | |
フィルミニのユニテ・ダビタシオン ** | 1968年 | フィルミニ | フランス | 世界遺産 |
競技場 ** | 1968年 | フィルミニ | フランス | 世界遺産 |
プール ** | 1970年 | フィルミニ | フランス | |
開かれた手の碑 * | 1985年 | チャンディガール | インド | |
サン・ピエール教会 ** | 2006年 | フィルミニ | フランス | 世界遺産[注 6] |
三人の日本人弟子の存在については、国内でも一般にはあまり知られていない。