禅宗

禅宗
中国語
中国語
文字通りの意味坐禪, 立名
発音記号
標準中国語
漢語拼音Chán
ウェード式Chʻan2
イェール式
ローマ字
Chán
注音符号ㄔㄢˊ
呉語
ローマ字Zoe
粤語
イェール粤拼Sìhm
粤拼Sim4
閩南語
閩南語白話字Siân
潮州語ローマ字Siam5
閩東語
福州語ローマ字Sièng
中古音
中古音
別稱
中国語 達摩宗, 佛心宗
発音記号
日本語
漢字
旧字体
Transcriptions
ローマ字 Zen
朝鮮語
ハングル
漢字
発音記号
RR式Seon
ベトナム語
ベトナム語Thiền
ハンノム

禅宗(ぜんしゅう, Zen Buddhism)は、中国において発達した、禅那(ぜんな)に至る真の教えを説くとする大乗仏教の一宗派。南インド出身で中国に渡った達磨僧(ボーディダルマ)を祖とし、坐禅(座禅)を基本的な修行形態とする。ただし、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称され始めたのは、中国の唐代末期からである。こうして宗派として確立されると、その起源を求める声が高まり、遡って初祖とされたのが達磨である。それ故、歴史上の達磨による、直接的な著作は存在が認められていない。伝承上の達磨のもたらしたとする禅は、部派仏教における禅とは異なり、了義[注釈 1]大乗の禅である。

中国禅は、からにかけて発展し、征服王朝であるにおいても勢力は健在だったが、の時代に入ると衰退していった。

日本には、禅の教え自体は奈良時代から平安時代にかけて既に伝わっていたとされるが、純粋な禅宗が伝えられたのは、鎌倉時代の初め頃であり、室町時代幕府の庇護の下で日本仏教の一つとして発展した。明治維新以降は、鈴木大拙により日本の禅が、世界に伝えられた。

日本においては、坐禅修行を主とする仏教宗派が「禅宗」と総称されることが多い。これに対して、臨済宗14派と黄檗宗からなる臨済宗黄檗宗連合各派合議所と、曹洞宗宗務庁は2019年、中学校の歴史教科書について、個々の宗派名を書かず「禅宗」と一括りにする記述を改めるよう申し入れた

近年では、禅の修行方法を取り入れた更生教育や社員教育などに力を入れている寺院が目立つ。

言葉の由来

禅は、サンスクリットdhyāna(ディヤーナ/パーリ語では jhāna ジャーナ)の音写、あるいは音写である禅那(ぜんな)の略である。他に駄衍那(だえんな)・持阿(じあな)の音写もある。他の訳に、思惟修(しゆいしゅう)・静慮(じょうりょ)・棄悪[注釈 2]・功徳叢林[注釈 3]・念修[注釈 4]

禅の字は元来、天や山川を祀る、転じて、天子が位を譲る(禅譲)という意味であった。これに「心の働きを集中させる」という語釈を与えて禅となし、「心を静かにして動揺させない」という語釈を与えて定とし、禅定とする語義が作られた。ただし禅那の意味では声調平声から去声に変わっており、現代北京語では加えて声母も変わってshàn(シャン)に対しchán(チャン)になっている。

禅那

圭峰宗密の著書『禅源諸詮集都序』には、禅の根元は仏性にあるとし、仏性を悟るのが智慧であり、智慧を修するのが定であり、禅那はこれを併せていうとある。また、達磨が伝えた宗旨のみが真実の禅那に相応するから禅宗と名付けた、ともある。

類似の概念として三昧(サンスクリット: samādhi)がある。禅あるいはという概念は、インドにその起源を持ち、それが指す瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。ゴータマ・シッダッタ(釈迦)も禅定によって悟りを開いたとされ、部派仏教においては三学の戒・定・慧の一つとして、また、大乗仏教においては六波羅蜜布施持戒忍辱精進禅定智慧)の一つとして、仏道修行に欠かせないものと考えられてきた。

坐禅と瞑想

坐禅は、禅宗において、禅那(ぜんな)に至るための修行の中心となるものであり、瞑想の一種である。ただし、坐禅(の略語としての禅)は、あくまで自らの仏性を前提とし、不立文字(後述)が強調されるなど、禅宗の教えに基づくものを意味するもので、そのような前提に立たない一般の瞑想マインドフルネスとは区別される(ちなみにヨーガ (yoga) は、元来は瞑想を中心とした心身両面にわたる宗教的行法である。)。

宗派としての特徴

禅宗は、坐禅を中心とした修行による解脱を説くものであるため、その点において、自力の修行による解脱を説く初期仏教上座部仏教との共通性がある。逆にいえば、修行を通じたからの解放を説くことは、初期仏教以来の仏教の基本的考え方であり、禅宗が新たにもたらしたものではない。また、坐禅との呼称を用いるかは別として、仏陀自身が瞑想を通じて悟りを開いたとされていることをはじめ、初期仏教以来、瞑想は仏道修行の手法として重視されてきたもので、坐禅を修行に取り入れていること自体も、禅宗固有の特徴とは言い難い。

一方で、禅宗は、あくまで大乗仏教の系譜にある。大乗仏教に属する多様な思想や宗派の中では、他力救済の性格の強い浄土信仰(日本では、法然親鸞以来、浄土宗浄土真宗の割合が多い)や呪術的要素も内包する法華経などの経典と比較すると、修行による自力救済を重視する側面において、初期仏教上座部仏教と近似するという位置づけにあるが、思想・世界観としては、初期仏教上座部仏教との間になお違いがある。例えば、禅宗では、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)、つまり、全ての人間(や他の生物、さらに日本の仏教では山川といった無機の自然も)がそもそも仏性を有すると考えるが、これは大乗仏教の思想展開と東アジアへの伝播に伴って醸成された世界観であり、初期仏教上座部仏教の世界観とは異なっている。また、禅宗では、清掃、畑仕事、調理などの労働行為を「作務(さむ)」と呼んで、積極的に修行の一部とするが、この点も初期仏教上座部仏教には見られない考え方である

そして、禅宗では、達磨の四聖句とされる不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)・直指人心(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)に表れているように、言語的・論理的な説明・伝達の不可能性を強調し、むしろ、言語・論理による分別智をもって煩悩そしての原因とした上、坐禅を中心とした修行を通じ、無分別の智慧に到達することを、自らの内にある仏性禅那(ぜんな)の境地とする点にも、特色がある

ここで、不立文字とは、文字・言葉の上には真実の仏法がなく、仏祖の言葉といえども、解釈によっていかようにも変わってしまう[注釈 5]という意味であり、言語の持つ欠陥に対する注意である。そのため禅宗では中心的経典を立てず、教外別伝[注釈 6]を原則として師資相承[注釈 7]を重視するほか、臨機応変[注釈 8]以心伝心方便などにも、宗派としての特徴が表れる。

ただし、達磨の教えとされる二入四行論が、自己修養への入り方として、修養には文章から得る所の知識・認識から入る理入(りにゅう)と、現実に於ける実践から入る行入(ぎょうにゅう)の2つがあるとしているように、修行・実践の導入などとして、言語的・論理的な知識獲得の有用性が一切否定されているわけではない点には留意が必要である。

釈迦から開祖・達磨大師まで

嵩山少林寺達磨大師

禅宗での血脈相承法嗣と呼ぶ。釈迦以降の法嗣は次のように伝えている。

釈迦摩訶迦葉阿難陀-商那和修-優婆毬多-提多迦-彌遮迦-婆須密多-仏陀難提-伏馱密多-波栗湿縛-富那夜奢-阿那菩底-迦毘摩羅-那伽閼剌樹那-伽那提婆-羅睺羅多-僧伽難提-伽耶舎多-鳩摩羅多-闍夜多-婆修盤頭-摩拏羅-鶴勒那-獅子菩提-婆舎斯多-不如密多-般若多羅-菩提達磨

マハーカーシャパ摩訶迦葉)はバラモン階級出身の弟子で、釈迦法嗣とされる(法の継承者)。拈華微笑と言われている伝説が、宋代の禅籍『無門関』に伝わる。

世尊、昔霊山(霊鷲山、グリドラクータ)会上に在りて、花を拈(ひね)りて衆に示す。是の時衆皆な黙然として、惟だ迦葉尊者のみ破顔して微笑す。
世尊云「吾に、正しき法眼の蔵にして涅槃の妙心(正法眼蔵・涅槃妙心)、実相・無相・微妙の法門有り。文字を立てず教外に別伝し(不立文字・教外別伝)、摩訶迦葉に付嘱す」と。

— 『無門関』第一巻(世尊拈華)

二十八祖ボーディダルマ菩提達磨)(南インド出身)が中国に入り、禅の教えを伝えたとされる。達磨は中国禅の始祖となった。

中国の禅の歴史

黎明期

 
 
菩提達磨
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
慧可
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
僧璨
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弘忍
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神秀(北宗)
 
慧能(南宗)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
青原行思
 
南嶽懐譲
 
 
 
 
 
 
 
 
石頭希遷
 
馬祖道一
 
 
 
 
 
 
 
 

中国禅の歴史は『景徳伝灯録』等の文献にある(※禅が中国で実際に禅宗として確立したのは、東山法門と呼ばれた四祖道信580年 - 651年)、五祖弘忍601年 - 674年)以降)。初期の法嗣は右のように伝えられる。

北宗と南宗への分裂

五祖弘忍には、弟子筆頭の神秀606年 - 706年)、その弟弟子の慧能638年 - 713年)という優れた2人がいた。神秀は修行を通じて徐々に悟得する「漸悟」を規範としたのに対して、慧能は一足飛びに悟得する「頓悟」[注釈 9]を旨とする違いはあったが、ともに禅宗の布教に尽力した。やがて神秀は則天武后に招かれ洛陽へ入って破格の待遇を受け、神秀の死後も一派は代帝室や官人の庇護と支持を得た。すると慧能の弟子の荷沢神会684年 - 758年)が、神秀の教義を「北宗」と呼んで批判したため、東山法門派は北宗と、彼らの南宗に分裂してしまう。しかし南宗は支持を得ることができず一時は洛陽から追放されてしまうが、755年に始まる安史の乱に際し売牒(度牒を売る制度)を進言して粛宗の信頼を得ると、洛陽への復活を果たして徐々に信心を集め始め、神秀に代わり慧能を六祖に定めた。神会は洛陽の荷沢寺に拠点を置いたため、南宗は荷沢宗とも呼ばれたが、762年に神会が没すると求心力を失った。

845年(会昌5年)、武宗による会昌の廃仏で徹底した弾圧を受け、洛陽内の南北宗は廃絶してしまう。しかし、南宗法嗣を受けた多くの禅僧たちが翌年の武宗の死後も活躍し、唐代から宋代にかけて後に五家七宗と呼ばれるまでに隆盛した。現在に伝わる全ての禅宗はここから派生したとされている。

なお、チベット吐蕃)で行われたインド仏教中国仏教の宗論であるサムイェー寺の宗論において、カマラシーラ(蓮華戒)等と対峙した中国禅僧・摩訶衍は、北宗の者であったと言われている。また、神秀の弟子であった普寂の弟子道璿によって、北宗は日本へも伝えられている。

六祖壇経と禅の隆盛

六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』は、神会が六祖慧能を掲げて説いた新しい坐禅禅定定義とされる。これを元に後の中国禅宗は確立・発展した。

師衆に示して云く、
「善知識よ、何をか名づけて坐禅とするや。
此の法門中は、無障無礙なり。外に一切の善悪の境界に於て、心念が起こらざるを名づけて坐と為し、内に自性を見て動ぜざるを名づけて禅と為す。
善知識よ、何をか名づけて禅定とするや。
外に相を離るるを禅と為し、内に乱れざるを定と為す。外に若し相著れれば、内に心即ち乱れ、外に若し相を離れれば、心即ち乱れず、本性は自浄・自定なり。
只だ境を見、境を思えば即ち乱るると為す。若し諸境を見て心乱れざれば、是れ真の定なり。
善知識よ、外に相を離るる即ち禅、内に乱れざる即ち定なり。外に禅、内に定なり。是れ禅定と為す。
菩薩戒経に云く『我れ本元自性清浄なり』
善知識よ、念ずるとき念中に、自ら本性清浄なるを見、自ら修し、自ら行じ、自ら成ずるが仏道なり。

— 『六祖壇経』坐禅第五

さらに『景徳伝灯録』に載せる、慧能弟子南嶽懐譲677年 - 744年)とさらにその弟子の馬祖道一709年 - 788年)の逸話によって坐禅に対する禅宗の姿勢が明らかとなる。

開元中に沙門道一有りて伝法院に住し常日坐禅す。
師、是れ法器なるを知り、往きて問う、曰く「大徳、坐禅して什麼(いんも、何)をか図る」
一(道一)曰く「仏と作るを図る」
師乃ち一磚(かわら)を取りて彼の庵前の石上に於て磨く。
一曰く「師、什麼をか作す」
師曰く「磨きて鏡と作す」
一曰く「磚を磨きて豈(あに)鏡と成るを得んや」
師曰く「坐禅して豈仏と成るを得んや」
一曰く「如何が即ち是なる」
師曰く「人の駕車行かざる(とき)の如し。車を打つ即ち是か、牛を打つ即ち是か」
一、対無し。
師又曰く「汝、坐禅を学ぶと為すや、坐仏を学ぶと為すや。若し坐禅を学べば、禅は坐臥に非ず。若し坐仏を学べば、仏は定相に非ず。無住の法に於て、応に取捨すべからず。汝、若し坐仏せば、即ち是れ仏を殺す。若し坐相に執さば、其の理に達するに非ず」
一、示誨(じかい、教え)を聞きて、醍醐を飲む如し。

— 『景德傳燈錄』巻第五

この部分に中国禅宗の要諦が尽されているが、従来的な仏教の瞑想から大きく飛躍していることがわかる。また一方に、禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するものだ、と非難するものがいるのも無理ないことである。しかし、これはあくまでも般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追究した真摯な仏教であり、唐代から宋代にかけて禅宗が興隆を極めたのも事実である。

般若波羅蜜は、此岸―彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、瞑想による超越ということでなく、中国禅の祖師たちは、心念の起こらぬところ、即ち概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。だからその活動の中での対話の記録―禅語録―は、日常のロゴスの立場で読むと意味が通らないのである。

中国では老子を開祖とする道教との交流が多かったと思われ、老子の教えと中国禅の共通点は多い。知識を中心としたそれまでの中国の仏教に対して、知識と瞑想による漸悟でなく、頓悟を目標とした仏教として禅は中国で大きな発展を見た。また、禅宗では悟りの伝達である「伝灯」が重んじられ、師匠から弟子へと法が嗣がれて行った。

やがて、北宋代になると、法眼文益が提唱した五家の観念が一般化して五家(五宗)が成立した。さらに、臨済宗中から、黄龍派楊岐派の勢力が伸長し、五家と肩を並べるまでになり、この二派を含めて五家七宗(ごけしちしゅう)という概念が生まれた。

さらに禅は、もはや禅僧のみの占有物ではなかった。禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的にはたらきかけた。よって、教団の枠組みを超え、朱子学陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えた。

慧能以降の法嗣

慧能以降の主な法嗣の系統は、以下の通り。太字五家七宗

南宗の法嗣
六祖慧能
(638-713年、
曹渓宝林寺)
青原行思
(不詳-740年、
禅の二大祖師)
石頭希遷
(石頭宗
南嶽懐譲
(677-744年、
禅の二大祖師)
馬祖道一
洪州宗
百丈懐海 黄檗希運 臨済義玄(不詳-867年、臨済宗開祖)
潙山霊祐
(771-853年)
仰山慧寂
(804-890年、潙山とともに潙仰宗開祖)
南泉普願 趙州従諗
荷沢神会荷沢宗開祖)

五家七宗

臨済宗潙仰宗雲門宗曹洞宗法眼宗を五家、禅宗五家と呼称し、臨済宗から分れた黄龍派楊岐派を合わせて七宗と呼称する。それらを併称して五家七宗(ごけしちしゅう)と呼称する。

臨済宗

臨済義玄を宗祖とするが、唐末五代においては、華北に地盤を置いた臨済宗は、義玄の門弟三聖慧然、興化存奨以後、その宗風はさほど振るわなかった。存奨系統の南院慧顒風穴延沼らが一部でその法統を継承するに過ぎなかった。

北宋代になって、延沼の弟子の首山省念門下の汾陽善昭、広慧元璉、石門蘊聡といった禅匠が輩出して、一気に宗風が振るうようになった。善昭門下に石霜楚円、瑯琊慧覚が出、楚円門下からは楊岐派楊岐方会黄龍派黄龍慧南が出て、その一門が中国全土を制覇することとなった。

の高峰原妙は、その宗風を「痛快」という言葉で表現している。

  • 黄龍派 - 宋代の中期以降に、慧南の系統が勢力を伸長し、楊岐派と共に、五家と肩を並べるまでになった。慧南の門下から晦堂祖心、東林常聡、真浄克文が輩出し、祖心の弟子の死心悟新霊源惟清が、克文の下からは兜率従悦、覚範慧洪らが出て活躍し、当初は、より盛んであった楊岐派よりも優勢になった。
  • 楊岐派 - 黄龍派と同様に方会の系統が勢力を伸ばし、七宗の一に数えられるまでになった。白雲守端の門下に五祖法演が出て、その門弟より、圜悟克勤仏鑑慧懃仏眼清遠という、三仏と称される禅匠が現われた。南宋になっても、その勢いはとどまらず、克勤の門弟子、大慧宗杲は多数の門弟を集め、大慧派を形成した。その他、虎丘紹隆の虎丘派、虚堂智愚を出した松源派、無準師範を出した破庵派なども活躍した。

潙仰宗

潙山霊祐仰山慧寂を祖とする。この系統も十国荊南南唐を中心として教勢を張ったが、その後は次第に衰退し、宋代にまで伝わることがなかった。

元の高峰原妙は、その宗風を「謹厳」という言葉で表現している。

雲門宗

雲門文偃を祖とする。文偃門下の香林澄遠・洞山守初・徳山縁密など多くの俊哲が出て唐末に一大勢力を形成し、五代末より北宋にかけて、隆盛を極めた。宋代には、澄遠の系統から現われた雪竇重顕、文殊応真系統の仏日契嵩が活躍した。重顕門下には、天衣義懐が出た。その後も、仏印了元や大梅法英らの禅匠を輩出し、臨済宗とともにもっとも隆昌を極めたが、南宋以後は次第に衰え、元代にはその法系が絶え、二百余年で滅びることとなった。

元の高峰原妙は、その宗風を「高古」という言葉で表現している。

曹洞宗

洞山良价を祖とする。良价、曹山本寂の系統は、五代十国荊南南唐に宗勢を張ったが、全体的には余り宗勢は振るわなかった。本寂門下の曹山慧霞、雲居道膺門下の同安道丕、疎山匡仁門下の護国守澄、青林師虔門下の石門献蘊らの活躍が見られる程度である。

北宋代になっても、余り宗勢は振るわなかったが、投子義青が出て中興を果たした。その宗風は、芙蓉道楷、丹霞子淳に継承された。道楷は、徽宗皇帝からの紫衣と師号の下賜を拒絶して、淄州(山東省)に流罪となり、災い転じて福となり、それが華北に曹洞宗が拡大する契機となった。

南宋代には、子淳の下から宏智正覚真歇清了が出て、「黙照禅」と呼ばれる宗風を維持したが、その宗勢は、臨済宗には遠く及ばなかった。なお、清了門下の天童如浄が、入宋した道元の師である。正覚の門下からは、『六牛図』を著した自得慧暉が出た。慧暉の系統が、その後の曹洞宗を支えることとなった。

河北に教勢を張った鹿門自覚の系統からは、代になって、万松行秀が出現し、大いに教化を振るうこととなる。行秀は、林泉従倫や雪庭福裕耶律楚材らの多くの優れた門弟子を育て、章宗の尊崇を受けた。福裕は、朝において、道教全真教の道士、李志常と論争して勝利を収め、嵩山少林寺に住して教勢を張った。以後、少林寺は、華北における曹洞宗の本拠となり、の後半には、「曹洞正宗」を名乗ることとなった。

元の高峰原妙は、その特色を、「細密」という言葉で表現している。

法眼宗

五家の観念の初源となった『宗門十規論』を著した法眼文益を祖とする。五代十国では、呉越国王の銭氏一族が、永明道潜、天台徳韶永明延寿らの法眼宗に属する僧らを保護したため、江南地方において、その宗勢が振るった。

宋代になると、徳韶、延寿の系統は衰退した。代わって、清涼泰欽や帰宗義柔の系統が、その主となった。泰欽門下からは、雲居道斉、霊隠文勝の師弟が出て活躍したが、次第に衰退に向かい、ついに北宋末には、その系統は断絶してしまった。

元の高峰原妙は、その宗風を、「詳明」という言葉で表現している。

日本における禅宗の歴史

日本には、公式には13世紀鎌倉時代)に伝えられたとされる。また、日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺行表は中国北宗の流れを汲んでいる。臨済・曹洞の禅は鎌倉仏教として広がった。臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。曹洞禅道元が中国に渡り中国で印可を得て日本に帰国することに始まるが、それ以前に大日房能忍多武峰達磨宗(日本達磨宗)を開いていた事が知られる。曹洞宗の懐鑑、義介らは元達磨宗僧侶であった。

鎌倉時代以後、武士庶民などを中心に日本仏教の一つとして広まり、各地に禅寺(禅宗寺院・禅林)が建てられるようになったのに加え、五山文学水墨画のように禅僧による文化芸術活動が盛んに行われた。

中国から日本に伝わる禅の宗派に25の流れがあり、臨済宗から独立した黄檗宗を含めると47流になるとされる。

一方で、9世紀平安時代前期)に皇太后橘嘉智子に招かれての禅僧・義空が来日し、檀林寺で禅の講義が行われたものの、当時の日本における禅への関心の低さに失望して数年で唐へ帰国したとする記録も存在する。

日本禅宗25流

臨済宗

唐の臨済義玄を宗祖とする。日本では中国から臨済禅を伝えた栄西に始まり、その後何人かの祖師たちが中国からそれぞれの時代の清規を日本に伝えたため分派は多い。現在の日本の臨済宗公案禅といわれ、江戸時代に白隠がまとめたスタイルである。公案とは、裁判の公判記録のことであるが、転じて禅語録として伝えられる祖師たちの対話をいうようになった。それぞれの判例を一則、二則と数える。その対話を知ることにより悟りを知ろうとする。公案は論理的な思考によって理解する事ができない内容が多い。

臨済宗のなかでは、妙心寺派が最大である。江戸時代、宗学が発達し、無著道忠1653年 - 1744年)が現われ、諸本を校訂し、綿密を究めた手法を確立し、膨大な著述を残した。その著書は、近現代においても研究上の価値を失わない水準を有しており、影印版が実用書として出版されている。

曹洞宗

以下は曹洞宗の法系の一例である。

釈迦-(中略)-大鑑慧能青原行思石頭希遷-薬山惟儼-雲巌曇晟-洞山良价-雲居道膺-同安道丕-同安観志-梁山縁観-大陽警玄-投子義青-芙蓉道楷-丹霞子淳-真歇清了-天童宗玨-雪竇智鑑-天童如浄永平道元孤雲懐奘徹通義介瑩山紹瑾-...

六祖曹渓慧能洞山良价から曹洞宗とした。日本では中国に渡り印可を得て1226年に帰国した道元から始まる。帰国の翌年には普勧坐禅儀を著し、只管打坐を専らとする宗風を鼓舞した。その修行内容は「永平清規」を厳しく守り、一時的な見性に満足してしまうことや坐禅の他に悟りを求めることを良しとせず、只管に坐禅を勤めることに特色がある。

道元は自分の教えは「正伝の仏法」であるとして党派性を否定し、禅宗と呼ばれることも嫌った。

初期は在家への布教にも熱心であったが、晩年は出家第一主義の立場を取った(『正法眼蔵』十二巻本参照)。その後、總持寺開山瑩山の時代に、坐禅だけではなく、徐々に儀式密教の考え方も取り入れられ、一般民衆に対し全国的で急速な拡大をした。

曹洞宗の坐禅は公案に拠らず、ただ、ひたすら坐る(只管打坐)ことが、そのまま本来の自己を現じている(修証不二)としているが、公案そのものを否定しているわけではない。また、法系によっては公案を用いる流れも存在する。

普化宗

9世紀臨済録に登場する普化に因み始まる。普化についての記録はほとんどない。虚托(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。日本から中国に渡った法燈国師が、中国普化宗16代目張参に弟子入りし、1254年に帰国することで、日本に伝わった。本山は一月寺(現在の千葉県松戸市)に置かれていた。

江戸時代に幕府により組織化されたが、江戸幕府との繋がりが強かったため、明治になって1871年明治政府により解体された。宗派としては失われ、臨済宗に編入された(ちなみに一月寺は現在日蓮正宗に属する)。しかし、尺八や虚托の師匠としてその質を伝える流れが現在も伝わっている。

黄檗宗

1654年江戸時代)に、明から招かれた中国臨済宗の隠元隆琦禅師により始まる。当初「臨済真宗」を標榜しようとしたが幕府の許可が得られず、臨済の師黄檗希運の名を取り臨済宗黄檗派と称した。明朝風の禅と念仏が一体化した禅浄混淆禅(分かり易く「念仏禅」とも称される。)を特徴とし、読経が楽器を伴う明風の梵唄であることで知られる。また、1663年萬福寺に設けられた戒壇をはじめ、各地で授戒会を開いたことで、江戸時代の戒律復興運動に影響を与えた。江戸時代を通じて一宗として見做されることなく、臨済宗の一派で終始した。黄檗宗を名乗り、臨済宗から独立を果たしたのは、明治維新後の1876年のことであり、明治以後に禅宗中の一宗となった。

日本の禅宗の教義

中国で成立した禅宗は、本質的に教義を否定する傾向があったが、比叡山延暦寺の影響の大きい、日本の多くの禅の宗派は、教義を展開する。この節では、現代日本に於ける禅宗の姿を鳥瞰する。

全ての人が例外なく自分自身の内面に本来備えている仏性[注釈 10]を再発見するために、坐禅と呼ぶ禅定の修行を継続する中で、仏教的真理に直に接する体験を経ることを手段とし、その経験に基づいて新たな価値観を開拓することを目指す。そうして得た悟りから連想される智慧を以て、生滅の因縁を明らかにし、次いで因縁を滅ぼして苦しみの六道解脱して涅槃に至り[注釈 11]、その後に一切の衆生を導くことを目的とする。そのため師家修行者に面と向かって、臨機応変に指導する以外には、言葉を使わずに直に本性を指し示す道[注釈 12]であるとされる。

主な修行形態として坐禅を採用するのは、達磨大師が坐禅の法を伝えたとする以外にも、古来より多くの諸仏が坐禅によって悟りを開いてきたからであるとされる。最近は、坐禅によってセロトニン神経が活性化され鍛えられることや、通常とは異なる独特なアルファ波が発生することが、精神的安定や心身の健康の一因であるという生理学教授[注釈 13]もいる。 ただし、自分も根本的には仏祖と同一であるという境地に到達した者には、一切の行動にことごとく仏道が含まれているという価値観が生じるため、坐禅に限らず念仏や読経も行うようになる。

禅宗においては、そもそも禅宗とは何かといった、メタな問いかけを嫌う傾向にある。そのような疑問の答えは、坐禅修行によって得た悟りを通して、各々が自覚する事が最上であるとされ、もし人からこういうものだと教わりうる性質のものであるならば、それは既に意識が自身の内奥ではなく外へ向かっているため、内面の本性に立ち返るという禅宗の本意に反するとされるからである。もう一つの理由として、概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達して後に、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。

文字や言葉で教えることを避けて坐禅を勧める理由として、世尊拈華迦葉微笑[注釈 14]における以心伝心の故事を深く信奉しているという以外にも、自分の内奥がであることを忘れて、経典や他人の中に仏を捜しまわることが、かえって仏道成就の妨げになるからであると説く。

沢庵和尚が、たとえて言うには「水のことを説明しても実際には濡れないし、火をうまく説明しても実際には熱くならない。本当の水、本物のに直に触ってみなければはっきりと悟ることができないのと同様。食べ物を説明しても空腹がなおらないのと同様」で、実際に自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは得られない次元にあると説き、その次元には坐禅によって禅定の境地を高めていくことで、到達できる[注釈 15]とする。

禅宗の坐禅における禅定の種類

栄西は『興禅護国論』で『楞伽経』を引いて坐禅は四種類あると説いている。

愚夫所行禅
凡夫・外道[注釈 16]が、単に心をカラにして分別を生じないのを禅定だと思っている境地。達磨大師は、内心に悶えることなく外に求めることもないこの境地が壁のように[注釈 17]動かなくなれば、そこではじめて仏道に入ることができると説く。
観察相義禅
小乗・三賢の菩薩が、教わった仏法を観察し思惟する境地。しかし、いまだ仏法・涅槃を求める強い欲心があるがために悟りを開けないでいる。人々がいつまでも苦しみの輪廻を逃れられないのは、このように我が身にとらわれて自分さえよければと欲求することが、結果的に罪業[注釈 18]を作る結果となるからである。夢窓国師は、もし自分を忘れ一切の欲を投げ捨てて利他心を起こせば、すぐさま仏性が発揮されて、生き仏になることができると説く。
攀縁如実禅
大乗の菩薩が、中道を覚って三業[注釈 19]を忘れ、有るでもなしでもなしと達観する境地。生きとし生けるものすべての生滅の苦しみに同情し、苦しみを抜いて楽を与えるべく苦慮しており、その姿勢にはもはや自他の区別がない。しかし衆生を救う願があるがために如来清浄禅に入ることができない[注釈 20]
如来清浄禅
如来と同じ境地に入り、みずから覚って聖なる智慧が現れたすがた。禅宗で、坐禅によって本分の田地、本来の仏性に知らず知らずに立ち返るというのは、前記の二禅を飛び越え、愚夫所行禅から直にこの位に達することを意味する。それゆえ如来十号菩薩五十二位も枝葉末節であるとされる。

また、愚夫所行禅から如来清浄禅に至るまでの上達の様子については『鉄眼禅師仮字法語』に詳しい。

方便

方便法輪。日本の禅では、仏祖・禅師の本意ではないものの、本意を伝える手段となりうるという意味で方便という。またいかにすれば仏性を発現できるかを模索する、柔軟な心構えをいう。教宗の学、真言宗の三密、律宗の戒律のようなものである。

只管打坐(しかんたざ)
ただひたすらに坐禅を実践せよの意味。ひたすらとは禅定の深さを表現した言葉である。意識を捨てて無意識下において坐禅する[注釈 21]、坐禅そのものになりきることを意味する。いま坐禅している自分がいる、という自覚すら忘れてしまうほどに、坐禅という行為そのものに没頭する(坐忘)。この手法によって初心者でも、より深い禅定の境地を、容易に体験可能であるとされる。
ただ、禅宗は臨機応変であり、大乗仏教はあらゆる道に仏道が含まれていると考えるので、坐禅以外のことはしてはならないということはないが、このようなことは初心者には理解が及ばず、そのために初心者向けの方便として只管打坐[注釈 22]・修証一如[注釈 23]こそが禅宗の極意であるということが言われる。坐禅の境地には上下なく、坐禅すれば等しく仏であるという喝も、只管打坐を奨励する一種の暗喩的方便である。
ただし今世で悟りを開けずとも、坐禅の功徳によって来世では悟りを開く事ができるとされるため、坐禅をすればそのままただちに仏である(坐禅しなければいつまでも仏にはなれない)という意味通りの解釈も間違いではない。仏道成就の早い遅いについて達磨いわく、心がすでに道である者は早く、志を発して順々に修行を重ねる人は遅く、両者には百千万劫もの時間差があるという。深く正しく坐禅する者は早く、しなければ遅いという意味の一連の喝は、学習よりも坐禅の実践を強調する表現手法である。
公案禅(こうあんぜん)
達磨大師が西から旅をして来た理由は、国外の仏教の衰えを憂えて、悟るために重要なものが坐禅の実践であり、経典の学習ではないことを宣教するためであるとされる。しかし、ひとまず思考・議論・学習を止めよと教えても、なぜ止めねばならないかについて思考・議論・学習を始めてしまうような思考癖のある修行者にとって、只管打坐は至難の方法となる。
そのような修行者は、いかなる経典を学ぶとも、悟りというものの共感が得られないために、想像をふくらませて解釈しようとする。無理な想像は妄想となって理解に歪みを生じ、自ら生み出した曲解に妨げられてますます悟りから遠のくという事態は、昔から多くの師家を悩ませてきた。経典を学ぶにしても、学び手に必要なものはまず悟りの体験である。悟りというものは自分の心で自分の心を確認し、自分の心で自分の心を理解するものである。他人に頼って何かを明らかにするとか、自分以外の何かを利用して体得するようなものではない。
従って、悟るためには何よりもまず坐禅の実践によって自分自身と向き合うことが肝要である。こうした問題意識から、思考癖のある聡い修行者に坐禅を実践させるために、禅師たちが考え出した方法が公案禅である。修行者に公案を与え、行住坐臥つねに公案の答えを考えさせるのである。
公案
公案は直に悟りの境地を指し示したものであり、ひらめきと一体化した言い表せない感情的なものである。心がけがよくなく、このままではまちがった方向に進むおそれのある修行者[注釈 24]に対して、師家が薬のような意味合いで修行者に授ける。
内容は、昔の高僧の言葉を使うこともあれば、即興で作られることもある。公案を与えられた修行者は、その言葉がどのような本意から創造されたかを正しく悟って、師家の前で心を以て回答することを要求される。公案の多くが自己矛盾的文体を為しており、そのまま意味を理解しようとしても論理的に破綻する場合が多い。公案の答えは常識的な思考の届かないところにあり、自己を消し去ることで矛盾を解消したり、矛盾を止揚して高次の段階で統一したものである場合が多い。そういった答えに至る過程に禅の極意が含まれているとし、修行者を正しい悟りに導くための工夫の一つとされる。
ただし、このような学習を捨てて坐禅させるという方法は、師家の善良な監督下にあって庇護を受けることができる出家の僧侶に向けたものであり、在家の信者は坐禅と学習の両方を行う必要があるとされる。
内観
禅の修行が厳しく、師家のほうでも敢えて禅人を苦しめるのは、富貴で安穏であれば仏道を求めることが困難だからである。釈迦が王位に就いて姫と歓楽に耽り、国中の財産を集めた贅沢三昧の生活を、自ら捨てて出家して六年間の苦行をしたのも、このような理由であるとされる。
不意に病にかかり、気を失って死んだ方がましだと思うような病苦の中にあるときこそ必死に坐禅すれば、またとない大悟の機会となる。たとえ大悟を得られなくとも、その時の苦しみを思い返せば多少の生活の苦しみは取るに足りなくなる。また、無始無終の生死の迷いを打破し、如来の悟りに徹底するような、めでたい事は少しばかりの艱難辛苦なしには、得られるものではないという覚悟が、必要であるとされる。
とはいえ参禅が限度を超えて神経衰弱の苦しみにある修行者を見かねた白隠禅師が、その治療方法としての内観の秘法を伝授した。神経衰弱から来る禅病を直すための心身の休養方法であり、心身がもとより空虚なものであることを体験するために、24時間の睡眠と禅宗的なイメージトレーニングと数息観と丹田呼吸を行う。
二入四行
達磨が伝えたとされる二つの真理への至り方と、四つの実践方法。悟りに至る方法は数多くあるが、それらはすべてこの二つに要約されるとする。

霊魂(精神の永遠性、小我)の否定

禅宗(特には臨済宗)では肉体と精神とは同一のものと考え、区別をしない。肉体があるから精神もありうるのであり、精神があるというならばそこには発生原因として肉体がなければならない。そのような意味で、肉体がそのまま精神であり、精神は肉体である。もし死体を見て、肉体は滅んだが精神はどこかへ移動して不滅のまま残っていると考えるならば、これは大乗仏教ではない。霊魂の存在を認めると生と死に関する深い執着が発生するため、仏道成就を阻害するとされる。

禅宗では、心というものは刻一刻と変化しており、これこそ我が心であるといえるような一定の形態を持たないと考える。したがってこの心は実は幻の心である。この点では肉体についても同様のことが言え、肉体だと思っているものは実は物質が縁によって和合して仮に人間のすがたが現れたものにすぎず、縁が滅ぶ時には元通りバラバラになるためまったく実体がない。したがって心身はもとより一つの幻である[注釈 25]。幻だから、生きたり死んだりするものではない。生きたり死んだりしないから、常住不滅である[注釈 26]

もし悟った禅僧が、心身は一如であり肉体も精神も不滅であるというならば、これは仏性を直指した奥の深い説法であるといえる(無常喝: 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽)。

日中の禅宗比較

中村元は『日本人の思惟方法』において、民族性からくる思惟傾向に応じた日本と中国の仏教の性質の相違について考察し、禅宗においても日本と中国とでは教義が同一でなく、中国人の思惟方法が非論理的かつ苛酷残忍であることを反映するかたちで、中国の禅宗も隠遁的・独善的であるのに対し、日本人の思惟方法が寛容と愛情を強調することを反映するかたちで、日本の禅宗も宥和的・慈悲的なものへと変化しているのだという。中村は日本人の思惟の特徴に寛容性があるとして、これを反映して日本の禅宗は宥和的・慈悲的なものへと変化しており、日本人は国内においてもそれはそれでゆゆしき宗派であるとして敬意を払いながらも、ただ自分は別の道を行くというだけであって、キリスト教でいうプロテスタントのように論理的に争おうとはしなかった、と主張した。

日本の仏教は諸宗派がそれぞれの特徴を保持したまま今日まで維持発展しており、禅宗においてもこれは同様であるが、宗教法人制度が確立される明治初期頃までは禅宗内で臨済曹洞の宗を超えて他派の修行道場で指導者に師事する「遍参」という修行習慣が残っていた。一方、後の中国では禅宗(とりわけ臨済宗)を称するものが多数派、内容的には念仏禅が主流となり、文革の宗教弾圧後の復興を経た現在の中国大陸においては、清代の史跡を中心とするチベット仏教の寺院が都心部などで散見されるほかは、浄土教的要素が混淆した禅宗が一様化して残るのみとなった。結果として、二種類の中国禅や日本禅の古法の一部を継承する台湾や香港、華厳禅(曹渓宗)の韓国を除けば、今日の中国大陸では日本にあるようなセクト主義的な諸宗派の伝統はほぼ消失している。

日本文化への影響

日本へ入ってきた禅の宗教観は在来の諸文化に多大なる影響を与え、日本人気質や日本の風土と融合し、独自の発展を遂げていった。

華美を好まず、極力装飾や無駄を排するミニマリズムに基づく様式で、鎌倉文化からその影響が見られはじめ、室町文化(中でも東山文化)となって、国風文化により生まれた日本文化(和様)と完全に融合し、独自性を確立した。また江戸時代にかけて、禅は武家などに限られたものから一般庶民にまで普及し、鎖国政策と相まって、その文化としての独自性や定着度は増していった。禅の受容は、武家文化の発展とともにあり、それは武士の生活様式・精神性の根幹の一つが、禅であったことを示している。

禅の芸術が作られたのは禅寺においてであったが、こと室町時代においては、禅寺は中国文化の受け入れ窓口としても機能していた。宋・元・明由来の禅・世俗美術の受容が禅僧を通じておこなわれ、水墨画や枯山水、茶道、華道といった、いわゆる日本文化の代表的な部分が形成されることとなった。例えば、京都の相国寺からは、如拙周文雪舟といった画僧が輩出されている。また、禅寺は禅僧、公家、武士が交流するサロンとしての役割を果たしたことで、寺院に付属する書院や庭園美術が発達した。この分野では、臨済宗の僧侶、夢窓疎石が多大な役割を果たしている

なお中国文化において禅は、前項にも関連するが、明時代以降の衰退や、元来の多民族国家という機構、また近代の列強による支配や戦後の文化大革命などによって、文化浄化が常に一定の期間で発生し、人々の生活に根強く定着することはなかった(この傾向は禅に限らない)[要出典]。鈴木大拙が1938年に『Zen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture(禅と日本文化)』と題して世界に禅を広めたことや、実際に日本以上に禅を文化として吸収した国は他にないため、禅を日本の宗教として捉えている者も少なくない。

近年でも世界的に禅の思想が許容される要因には、「宗教らしくない」そのシンプルさや自由度の高さが挙げられている

美術・芸術

枯山水(京都龍安寺石庭
松林図屏風』(長谷川等伯作)

絵画として水墨画、施設として枯山水をはじめとする日本庭園、趣味嗜好品や置物として盆栽だるまなどがある。伝統工芸品には、彫刻陶磁器竹細工日本刀の拵えなどに禅の影響が見られる。

建築

京都・慈照寺(銀閣寺)
数寄屋造(旧松江藩士武家屋敷

寺院として禅宗様、住宅として書院造数寄屋造り茶室)などがある。禅宗様は南宋の建築様式を取り入れながら成立した。この様式は、同じく鎌倉時代に伝わった大仏様とともに、後世の日本における伝統建築に大きな影響を与えた。書院造や数寄屋造りは、現代に言う和風住宅和室の様式を確立させた。

江戸時代の臨済僧、無著道忠は、『禅林象器箋』において、七堂伽藍が人間の身体の7つの部位に対応していると説明している

日本茶と和菓子

精進料理懐石料理などがあり、日本料理の確立に貢献した。中でも日本人が現代でも最も好んで飲んでいる日本茶は、禅による影響が多大であり、それに付随して饅頭をはじめとする和菓子も確立、発展した。

服飾

僧衣から派生したが、特に衣服の柄や生地の趣味にその影響が見られる。江戸時代には、幕府によって服装に華美なものが規制されるほどであった(奢侈禁止令)。色無地江戸小紋などが著名である。近代では作務衣に、またユニクロ無印良品スティーブ・ジョブズの服装に代表されるノームコアなどにも同様の影響が見られる。

芸道

茶道
居合道

茶道をはじめ、書道能楽邦楽など、あらゆる分野にその影響が見られる。特に芸道の根幹をなす「」()は、禅の思想から生まれたともされる。禅の楽器として、虚無僧との繋がりから尺八がある。

禅は元来より武術との関係が深く、中国では禅発祥の地とも言われる嵩山少林寺での少林拳が有名である。また日本では、禅が芸道としての武道の成立に寄与した。これは、禅がはじめて伝えられた時期が武家が政治の表舞台に立つようになった鎌倉時代であったことと、彼ら武士の精神状況と相性が良かったことが背景にあった中世以前から続いていた武術(古武道)には、香取神宮鹿島神宮に代表される神道に根源を置くものも少なくないが、禅の影響もそれと同じほど多大である。例として、剣豪上泉信綱柳生宗厳が武術を学ぶ意義として禅語「刹人刀・活人剣」を用いたり、禅僧の沢庵宗彭が著書『不動智神妙録』において「剣禅一致」を説くなどしている。また岐阜県大仙寺)と山形県(釜ヶ沢大明神)には、それぞれ剣豪の宮本武蔵居合術始祖の林崎甚助が座禅したとされる石「座禅石」が現存している。近年では、ドイツ哲学者オイゲン・ヘリゲルが著書『Zen in der Kunst des Bogenschießens弓と禅)』を執筆し、弓術弓道)と禅を関連づけて、世界に伝えた。

美意識

幽玄渋み侘び寂びなどがある。武士道の成立にも多大な影響を与えた。また(いき)や(つう)といった、外見的には質素さを求め、内面に対してこだわりを求めるような美意識も、禅の影響があると言われる。

心理療法

世界の禅

禅者でもある仏教学者の鈴木大拙によって20世紀に日本からアメリカヨーロッパへと禅が紹介された。更にはサンフランシスコ禅センターを開創した鈴木俊隆によるZen Mind, Beginner's Mind や、弟子丸泰仙によってヨーロッパでの布教により、日本語の発音による Zen が世界的に広まり、臨済宗、曹洞宗共にアメリカやヨーロッパに寺院を構えている。カトリックでも習慣で元々瞑想が存在していたため、一部で取り入れられている。

全世界に禅の重要性を説いたインドOshoは、仏陀からインドの諸宗教家たち、老子荘子達磨から臨済らの禅者、いわゆる宗教家とされる人々のテキストを題材に上げて多くの人々を魅了してきたが、晩年は禅に関する講話を集中的に行ったOshoは、「禅こそは<存在>に対する正しい姿勢であり、究極の真理だ。なにも信じることがなく、追従者になったり信奉者になったりすることなく、ただ自分自身の内側に入り、そして<全体>という途方もない無の中に入っていく。その無というのは、あなたがかつてやって来た源であり、また再び入っていくところだ」、と言う。唯一必要なのは自己からの自由だ、それこそが禅の本質だ、と説く。

近年において

現在[いつ?]ベルギーではセクト(カルト)に関する報告書政府文書により禅が浄土真宗や上座部仏教と同時にセクト(カルト)の一つとして分類されている。1997年にフランスドイツオーストリアに続き、セクト(カルト)に対する政策を作るためベルギー代議院の社会正義委員会で審理委員会が設けられた。同委員会が作成した、670ページにわたる報告書に取り上げられた189の運動の中に禅も含まれている。ただし、「このリストに載っている事実は、公訴の調査中であったとしても、当委員会がその運動をカルトと見做しているとは意味しない」とも記されている。

脚注

注釈

  1. ^ 了義(りょうぎ)。解りやすく崩したり表現を変えるようなことをせず、完全・明白に説かれた教え。『涅槃経』の四依品には、末代の人は了義によるべきであり、不了義によってはならないとある。
  2. ^ 棄悪(きあく)。心の正しき働きを覆い隠すような一切の悪を捨て去る
  3. ^ 功徳叢林(くどくそうりん)。衆徳のあつまること叢林のようである。
  4. ^ 念修(ねんしゅう)。修は習得すること。習得して得られるものは棄悪・功徳叢林である。
  5. ^ 悟りは文字によって得ることはできないとはいえ、沈黙によっても得ることができないとされるため、一切の説明を行わないということはなく、臨機応変な方便として様々な方法で説かれる。
  6. ^ 教外別伝(きょうげべつでん)。人格を相伝すること。文字や言葉を残す以外にも、禅師の全人格をそのまま弟子に伝えることが重要であるとされる。
  7. ^ 師資相承(ししそうしょう)。悟りの機微は師から弟子へと受け継ぐべきものであり、それが法脈となって後世の人々を救う。生きた仏として残るため個別のケースに応じた柔軟な指導が可能となる。そのため固定の戒律を持たず、固定の修行方法を持たず、特別な本尊を定めることもなく、必ず出家しなければならないというような決まった形もない。
  8. ^ 臨機応変(りんきおうへん)。例えば、あまりに経典を大切にしすぎる人には、正法眼蔵も世尊拈華も真実の悟りから見れば寝言のようなものであるといって捨てさせたり、あまりに経典を軽んじすぎる人には読経を勧めたりといったことである。
  9. ^ 実は『六祖壇経』に慧能は「本来正教無有頓漸(正しい教えに本来は頓も漸もない)」と説いている。従って差異があると主張していたのは神会である。
  10. ^ 教宗では俗人と仏とを別々のものと考えた上で仏性という言葉を使うが、禅宗では俗人も欲を除けばそのまま仏であるという意味で仏性という。全ての人がそなえていると書いたが実際は人に限らず生きとし生けるものすべてが円満に持っており、姿形は動物によって違うが仏性は平等であるとされる。ただし、このように読んで頭で理解するにとどまって体感を伴わないことを嫌うのが禅宗である。
  11. ^ 悟って如来と同じ境地に入ること。体験を経てから涅槃に至るまでの一連の流れについて頓悟漸悟あるが、人の利鈍によって早い遅いがあるにすぎない。
  12. ^ 不立文字・教外別伝(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)。言葉や文字によらず、直に本性を指し示すこと。教宗にはない禅宗の特徴とされる。例えば、とはこういうものだと口で言って説明するのではなく、黙ってを指さすようなものである。ところが、その指を見ても何のことかわからずに、指の長短や肌の濃淡を論じるような者のために教宗があるとする。ただし、禅宗が指すものは悟りの境地であり、教宗が指すものも悟りの境地である。それゆえ禅・教は表裏一体のものであり、禅の中に教があり、教の中に禅があるため、双方を両立するに何ら矛盾はなく、特に他宗派を誹謗する者に対しては禅教の両立が推奨される。
  13. ^ 有田秀穂 東邦大学医学部生理学教授
  14. ^ 世尊拈華、迦葉微笑(せそんねんげ、かしょうみしょう)。故事。釈迦が入滅するに際し、大衆居並ぶ説法の席で一枝の蓮華を拈って見せた。みな何のことかわからず押し黙るなか、ひとりマハーカーシャパだけが微笑してうなずいた。それを見た釈迦はマハーカーシャパが悟りを開いたことを知り、我が不立文字教外別伝の正法はあなたにゆだねると言って仏法伝授の使命を授けたというもの。
  15. ^ 到達するといっても、なにか悟りという別の境地があってそこへ向かって進むわけではなく、その境地が元々の自分(いわば出生以前の自分)であり、その境地が底なのである。
  16. ^ 外道とは仏教以外の宗教者のこと
  17. ^ 壁は、外から来る妄念から内心を守り隔てるものの例えである。のちになって、物質的な本物の壁の意味に解されたが、これは誤りであろう。(柳田聖山『達磨の語録』P51)
  18. ^ 身口意の三業(しんくいのさんごう)。みだりに殺すこと、盗むこと、犯すこと、罵ること、騙すこと、綺語を言うこと、詭弁を言うこと、貪ること、怒ること、邪なことの十悪。
  19. ^ 身口意の三業。来世の生存は業を因縁として決定する。悪業に限らず、善業であっても善果としての来世が決定してしまうため、輪廻を逃れることができない。そのため善悪そのものを離れてしまうことが重視される。そして苦楽や生死についても同様に、とらわれないことを重視する。生死にとらわれなければ、輪廻もまた消滅するので、すべてが寂滅した世界観が開ける、というような意味である。しかし、このように学んだだけで実感を伴った悟りに至る人はまれである。それゆえ禅宗では話をせず、一切を投げすてて悟りの本分に直行させるために教外別伝を行う。
  20. ^ 禅宗以外の仏教宗派では衆生を成仏させきってから自らが成仏するのが菩薩であるとされるが、禅宗では先に自らが成仏して如来となってから衆生を導くことを謳う。この両者は手段が違っているだけで、衆生を済度しようという目的は同じであるため、どちらが間違っているということはない。もしこの両者について正誤にとらわれる者があるならば、彼は自分自身が小乗に陥っていないか省みる必要があるとする。
  21. ^ 睡眠中も無意識ではあるが、眠りという無明が付着しているために夢を見て一喜一憂する。理法に目覚めながら目覚める対象にとらわれないのが仏である。
  22. ^ 只管打坐(しかんたざ)。真実の只管打坐は単なる無念無想や無意識というようなものではなく、意識があるでもなくないでもなく、無念でも有念でもなくて、心身が澄み渡った空のように清くありのままを映し出す鏡のように感じられるところにあるとされる。ただし、この境地すらいまだ大悟徹底ではない。しかし大悟徹底の前段階であるとして歓迎される。
  23. ^ 修証一如(しゅしょういちにょ)。坐禅は、まだ悟っていない者が修行によって悟りに到達するようなものではなく、生来的に仏性を持っている(悟っている)はずの者が改めて修行をするのであって、それは修行がそのまま悟りなのであるという意味の喝。どんな凡人・外道も本質は仏なのであって、もともと悟った仏である者が、ことさら悟りを求めて坐禅するということがあってはならない。仏が仏になることを目指すというのであれば、大乗仏教が元々仏たる性質を指摘する本意に反するからである。
    このように、心そのものが即そのまま仏であると教えるのは、悟り・涅槃・仏性に執着させないための方便である。
  24. ^ 心がけの良くない修行者とは、はじめから本気で仏道を求める気持ちが無く、禅僧としての名声を求めていたり、金稼ぎを目論んでいたり、他人に言い負かされたくない一心で、あるいは知識をひけらかすために経典の学習を優先し、初心者に対して褒め貶しを行うような者。
  25. ^ 心身は幻であると聞けば、諸行無常のことを言っているのだと理解するかもしれないが、大乗教では実体がないことを理由に固定観念をうち破って中道に至らせる意味で使う。水面に映った月は、実相であるとは言えないが、確かに姿を映しているように見えるから実相ではないとも言えない。有るわけでもなし無でもなし、しかし有でもありでもあるという中道にこそ実相があるという意味である。禅宗では、世界はこのように曖昧であるから捨て置け、坐禅せよと教える。
  26. ^ 唯識では迷妄と悟りが調和した境地を第八識、常住不滅の衆生の本心を第九識などと区別して教えた。

出典

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  7. ^ 佐々木閑『別冊NHK100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した』(NHK出版、2017)
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参考文献

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  • 『禅 心と体が綺麗になる坐り方』(池田書店編集部編、池田書店、2004年)
  • 『正法眼蔵・行持』(道元著、安良岡康作訳、講談社2002年)
  • 『達磨の語録』(柳田聖山著、筑摩書房、1996年)
  • 古田紹欽 編『第1巻 禅と芸術 I』ぺりかん社〈叢書 禅と日本文化〉、1996年11月15日。ISBN 4-8315-0800-4 
    • 小笠原秀實「芸術境としての禅」『禅文化の体系』昭森社、1944年、161-244頁。 
    • 古田紹欽「日本文化と禅」『第1巻 禅と芸術 I』ぺりかん社、1996年11月15日、11-31頁。 
    • 山口諭助 著「無の芸術」、鈴木大拙宇井伯寿 編『禅の文化』角川書店、1956年、101-120頁。 
  • 『中村元選集〈第3巻〉東洋人の思惟方3日本人の思惟方法』(中村元著、春秋社、1989年)
  • 『禅宣言』Osho 市民出版社 1998年
  • 薄井和男監修 編『もっと知りたい禅の美術』東京美術、2011年。ISBN 978-4-8087-0833-7 
    • 薄井和男「禅院の仏と神」『もっと知りたい禅の美術』東京美術、2011年2月10日、48-68頁。 
    • 内田啓一「庶民に浸透した親しみやすい禅画」『もっと知りたい禅の美術』東京美術、2011年2月10日、32-34頁。 
    • 岡本祐美「日本における禅の歴史」『もっと知りたい禅の美術』東京美術、2011年2月10日、88-95頁。 
    • 小黒春香「修行と悟りを秘めた庭」『もっと知りたい禅の美術』東京美術、2011年2月10日、80-86頁。 
    • 冨嶋義幸「建築と庭」『もっと知りたい禅の美術』東京美術、2011年2月10日、70-79頁。 
    • 村野真作「禅の絵画」、「頂相とその形式」、「印可状と禅の書」『もっと知りたい禅の美術』東京美術、2011年2月10日、8-27,40-41,44-46頁。 
    • 成澤勝嗣「黄檗の絵画」、「隠元と黄檗宗の渡来」『もっと知りたい禅の美術』東京美術、2011年2月10日、28-31,96-97頁。 

関連項目

外部リンク