ショパンの署名
フレデリック・フランソワ・ショパン (仏 : Frédéric François Chopin 、ポーランド語 : Fryderyk Franciszek Chopin [注釈 1] [注釈 2] 、生年未詳(1810年 3月1日 または2月22日 、1809年 説もあり[注釈 3] ) - 1849年 10月17日 )は、ポーランド 出身の、前期ロマン派音楽 を代表する作曲家 。当時のヨーロッパにおいてもピアニスト として、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人 [注釈 4] とも呼ばれるようになった。様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いていった。夜想曲 やワルツ など、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽 ファン以外にもよく知られている。これらの情熱的かつダイナミックな曲はクラシックピアノを学ぶ者の憧れであり、大きな目標となっている。そのためピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人である。また、母国ポーランドへの強い愛国心からフランス の作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地だった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。
1988年 からポーランドで発行されていた5,000ズウォティ 紙幣に肖像が使用されていた。また、2010年 にもショパンの肖像を使用した20ズウォティの記念紙幣 が発行されている。2001年 、ポーランド最大の空港「オケンチェ空港(Port lotniczy Warszawa-Okęcie)」が「ワルシャワ・ショパン空港 」に改名された。
略歴
生涯
幼少期
父・ニコラ 。1829年 。ミエロシェウスキ[注釈 5] 作。
母・ユスティナ
ショパンの父親はニコラ・ショパン といい、ロレーヌ から1787年 に16歳でポーランド に移住してきたフランス人だった。1794年 のコシチュシュコの蜂起 で、彼はワルシャワの市民兵として戦いに加わり、副官へ昇格した。彼のフランスで受けた洗礼名はニコラ(Nicholas )だったが、ポーランドではポーランド風の名前を名乗ることにし、ミコワイ(Mikołaj )とした。元来外国人だった彼だが、時とともに完全にポーランドに馴染んだ。ポーランドの歴史家・公文書保管人のワパチンスキ(Łopaciński)によれば、彼は「自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった」という 。
フランス語が堪能だったニコラは知られる存在となり、貴族の家庭教師をするようになった 。その中にはスカルベク(Skarbeks)がおり、ニコラはその遠い親戚であるユスティナ・クシジャノフスカ(Justyna Krzyżanowska)と結婚した 。彼女はシュラフタ (ポーランド貴族)の娘だったが、地位を失いスカルベク家に住み込んで侍女 をしていた。二人の結婚式は16世紀 のブロフフ[注釈 6] の教区の聖ロフ教会で、1806年 6月2日 に執り行われた。ユスティナの兄弟には、アメリカ の南北戦争 で北軍 の准将 を務めることになるヴォジミエシュ・クシジャノフスキ (英語版 ) がいた 。
フレデリック・ショパンは夫妻の2人目の子供として生まれた[注釈 7] 。彼は当時ワルシャワ公国 だったワルシャワから西に46kmの地点にあるジェラゾヴァ・ヴォラ 村で生まれた。1892年 に発見された教区の洗礼記録によると、彼の生年月日は1810年 2月22日 となっているが[注釈 8] これは本人やその家族の主張する3月1日 という日付より一週間早い 。ショパンが1833年 1月16日 にパリのポーランド文学協会(Polish Literary Society)の議長に宛てた書簡には、彼が「1810年 3月1日 にマゾフシェ県のジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた」と記されている 。
ショパンは1810年4月23日 の復活祭 の日曜日、両親が結婚式を挙げたのと同じブロフフの教会で洗礼を受けた。登記簿には彼の名前はラテン語表記でFridericus Franciscus [注釈 8] 、ポーランド語表記でFryderyk Franciszek と記されている。彼の代父 となったフレデリック・スカルベク(Fryderyk Skarbek )は後に監獄を改修する仕事[注釈 9] に従事し、第二次世界大戦で悪名をとどろかせたパヴィアク刑務所 の設計に携わった。また彼は第二次世界大戦でイギリス の特殊作戦執行部[注釈 10] に所属していたクリスティナ・スカルベク(Krystyna Skarbek )の曽祖おじにあたる。代父の息子のヨーゼフ・スカルベクは、かつてショパンと婚約関係にあったマリア・ヴォジンスカ(Maria Wodzińska )と1841年 に結婚する。
1810年10月、ショパンが7か月の時、サムエル・リンデ (英語版 ) [注釈 15] が父にワルシャワ中等学校 (英語版 ) [注釈 16] でフランス語 を教えないかと持ちかけ、承諾した父と共に家族はワルシャワに移住した。中等学校はサスキ宮殿 [注釈 17] 内にあり、ショパン一家は宮殿の庭園に住むことになった。サスキ宮殿は1817年 にコンスタンチン・パヴロヴィチ によって軍用地として徴収され、中等学校はカジミェシュ宮殿 [注釈 18] へ移動を余儀なくされた 。カジミェシュ宮殿には新たに設立されたワルシャワ大学 も入居していた。ショパン一家は隣接する建物の二階で広々と暮らすことになった。ショパンもワルシャワ中等学校に1823年 から1826年 にかけて通った。
ポーランドの精神・習慣・言葉はショパンの家庭に浸み込んでおり、ショパンはパリに出てからもフランス語を完全には自分のものにできなかった 。伝記作家のルイ・エノー[注釈 20] はジョルジュ・サンドの言葉を借りて、ショパンは「ポーランドよりもポーランド的」と評している[注釈 21] 。
ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていた。父ニコラはフルート とヴァイオリン を演奏できた。母ユスティナはピアノ に長けており、一家で切り盛りしていたエリート の寮で寮生の少年たちに指導をしていたので、[注釈 22] ショパンは幼い頃から様々な音楽に親しむことができた 。
姉・ルドヴィカ
妹・イザベラ
指導者・ジヴヌィ
ショパンと同時代の音楽家のユゼフ・シコルスキ (ポーランド語版 ) [注釈 23] の著書『ショパンの想い出 Wspomnienie Chopina 』によると、幼いショパンは母が弾くピアノを聴いて感極まって涙を流したという。彼は6歳にして、耳にした旋律を再現しようとしたり、新たなメロディーを作ろうとしたりした 。しかし、ショパンに最初にピアノを教えたのは母ではなく、姉のルドヴィカ[注釈 7] だった 。
ショパンが本格的にピアノを習ったのは1816年 から1822年 、指導者はチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィ だった 。若きショパンの実力はあっという間に師匠を超えてしまったが、ショパンは後年ジヴヌィを高く評価していた。わずか7歳の「ショパン少年 Szopenek 」は公開演奏を行うようになり、瞬く間に神童 モーツァルト やベートーヴェン と比較されるようになっていった 。
同年、7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ 』を作曲した。前者は老イジドル・ユゼフ・チブルスキ[注釈 24] の印刷工房で刷られ、出版された。後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。これらの小品はワルシャワの先導的作曲家たちの人気の『小ポロネーズ』のみならず、ミヒャウ・オジンスキ[注釈 25] の有名な『大ポロネーズ』にも匹敵する作品と言われた。この後の旋律・和声・ピアノ奏法の創意工夫は、知られている次の『ポロネーズ 変イ長調 』に明らかである。この曲は1821年 に聖名祝日 の贈り物としてジヴヌィに捧げられた 。
幼少期の知的好奇心旺盛なショパンは、まるで乾いたスポンジのように何でも吸収し、それを発展させるためならば何でも利用した。彼は早くから観察とスケッチ、鋭いウィットとユーモアの感性に能力を示し、ものまねにも才能を持っていた 。
この頃、11歳のショパンは、議会(セイム)の開会のためにワルシャワに来ていたロシア の皇帝アレクサンドル1世 の御前で演奏を披露した 。また、ポーランド立憲王国 の副王 だったコンスタンチン・パヴロヴィチ 大公 の息子の遊び相手としてベルヴェデール宮殿[注釈 26] に時々招かれ、ピアノを弾いて怒りっぽい副王を魅了した 。
ユリアン・ニームチェヴィツ[注釈 27] は、劇的エクローグ 『我らの交わり Nasze Verkehry 』(1818年 )の中で、8歳のショパン少年を対話の題材に据えて、その人気の高さについて証言している 。
1820年代 、ワルシャワ中等学校とワルシャワ音楽院に通っていたショパンは、休暇の度にワルシャワから離れて過ごすようになった。1824年 と1825年 にはシャファルニャ[注釈 28] 、1826年 にはバート・ライネルツ(現:ドゥシュニキ・ズドルイ )[注釈 29] 、1827年 にはポメラニア 、1828年 にはサンニキ[注釈 30] を訪れた 。
休暇で訪れたシャファルニャ村やその他の町では、ショパンは民謡に触れた。この経験は後になって彼の作品へと形を変える。シャファルニャから彼の家に送られた長い手紙[注釈 31] は、時代を反映した活き活きとしたポーランド語で綴られており、ワルシャワの新聞のパロディ[注釈 32] として仕立てられたその手紙は大いに家族を楽しませた。
教育
ユゼフ・エルスネル 1853年 以降
ショパンは13歳になるまで家庭でジヴヌィから指導を受けており、1823年 のワルシャワ学院入学後もその関係は続いた。1825年 には演奏会でイグナーツ・モシェレス の曲を弾くとともに即興演奏 で聴衆を魅了し、「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛された 。
ショパンは1826年 にシレジア 出身の作曲家ユゼフ・エルスネル (エルスナーなどと表記されることもある)の指導の下、ワルシャワ音楽院で3年の教育課程に入った。実はショパンが最初にエルスネルに会ったのは1822年 であり、1823年 にも非公式にアドバイスを受けていたのは間違いない [要出典 ] 。そして1826年 に本格的な師弟関係が始まり、ショパンはエルスネルに付いて音楽理論 ・通奏低音 ・作曲 の勉強を開始した。
エルスネルはショパンの通知表に「顕著な才能」そして「音楽の天才」と記している。ジヴヌィもそうだったように、エルスネルもまたショパンの才能が開花するのに対して手を施すことはなく、ただ見守るだけだった。エルスネルはショパンを指導するにあたって「偏狭で、権威的、時代遅れな」規則で「押さえつける」ことを嫌い、若い才能を「彼自身の決めたやり方の通りに」成長させていくことにした 。
クラジンスキ宮殿。ショパンは南館(左側)に住んだ。
1827年 に一家はワルシャワ大学と通りを挟んで丁度向かいにあたる、クラコフスキ区[注釈 36] のクラシンスキ宮殿[注釈 37] 南館に移り住んだ[注釈 38] 。この場所でもショパンの両親はエリート男子学生のための寄宿塾の経営を続けた。ショパンは1830年 にワルシャワを後にするまで、ここに住んだ。1837年 から1839年 には詩人のツィプリアン・カミル・ノルヴィト[注釈 39] が芸術アカデミーで絵画を専攻する間、ここに住んだ。彼は後に1月蜂起 でロシア兵がショパンのピアノを投げ捨てたことに関して、『ショパンのピアノFortepian Szopena 』という詩を詠んだ 。ショパンが通った床屋は現在博物館として公開されている。ショパンはその店で幼少期の作品の多くを初演した。
ショパンのピアノ
『ショパンのピアノ』 ノルヴィト作
両親の営む寄宿塾の寮生の中で4人がショパンと親しくなった。ティトゥス・ヴォイチェホフスキ[注釈 41] 、ヤン・ビャウォブウォツキ、ヤン・マトゥシンスキ[注釈 42] 、ユリアン・フォンタナ である。ショパンは同じジヴヌィ門下だったティトゥスとは特に親しく付き合った 。またマトゥシンスキ、フォンタナとはパリ に出てからの生活でも交流を続けた 。
ショパン ミエロシェフスキ作
1829年 、ポーランドの肖像画家のアンブロツィ・ミエロシェフスキ[注釈 5] がショパンの両親、姉のルドヴィカ、妹のイザベラとショパン本人の肖像画を描いた(一番下の妹のエミリアは1827年 に亡くなっていた)。この肖像画の原本は第二次世界大戦で消失しており、現在はモノクロ の写真が残る。1913年 にフランスの音楽学者・ショパンの伝記作家のエドゥアール・ガンシュ[注釈 43] はこう記した。「(この肖像画からは)この若者が結核 に罹っていることがわかる。彼の肌は極端に白く、喉頭隆起 が見られ、頬は落ち窪んでいる。また耳も結核に典型的な消耗を呈している」。妹エミリアの14歳での死因も結核であり、また父も1844年 に同じ病に倒れることになる 。
ポーランドの音楽学者・ショパンの伝記作家のズジスワフ・ヤヒメツキ[注釈 44] によれば、若いショパンはそれまでのどの作曲家と比べることも困難だという。なぜなら、ショパンが人生の前半に作曲した作品には既に高い独創性が見られるからだ。バッハ やモーツァルト 、ベートーヴェン ですら、同じような年頃には初心者の域を脱しなかったのに対し、ショパンは貴族や聴衆から既に来るべき時代の行方を示す大家として受け入れられていたのである[注釈 45] 。
ショパンは自作に自ら表題を与えることはせず、単純に曲のジャンルと番号によって個々を区別していた[注釈 46] 。しかし、彼の作品は感情的・感覚的な人生体験に触発されることもしばしばあった。そのような霊感を与えた最初の人物は、ワルシャワ音楽院の声楽科学生で後にワルシャワ・オペラの歌手となった美しいコンスタンツヤ・グワトコフスカ[注釈 47] である。親友のティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てた手紙の中で、彼のどの作品のどのパッセージが彼女への恋心から生まれたものであるかを綴っている。彼はティトゥスにだけ自分の気持ちを吐露していた 。彼の芸術家としての精神はマウリツィ・モツナツキ[注釈 48] 、ユゼフ・ザレスキ[注釈 49] 、ユリアン・フォンタナとの交友で豊かになっていった 。
青年期
ラジヴィウ公 の邸宅での演奏会
1828年 、ショパンはより広い世界に活躍の場を広げていく。家族的な付き合いのあったフェリクス・ヤロツキ[注釈 50] が 学会に出席するので同行して、ベルリン に赴く。ベルリンでは、ガスパーレ・スポンティーニ の指揮する馴染みのないオペラ を鑑賞し、演奏会を聴きに行き、またカール・フリードリヒ・ツェルター [注釈 51] やメンデルスゾーン などの著名人らと出会い、ショパンは楽しんで過ごす。また、彼はその2週間ほどの滞在中にウェーバー の歌劇 『魔弾の射手 』、チマローザ の歌劇 『秘密の結婚 』、ヘンデル の『聖セシリア 』を聴いた。その帰途ではポズナン大公国 の総督だったラジヴィウ公 に客人として招かれた。ラジヴィウ公自身は作曲をたしなみ、チェロを巧みに弾きこなすことができ、またその娘のワンダ(Wanda)もピアノの腕に覚えがあった。そこでショパンは『序奏と華麗なるポロネーズ Op.3 』を二人のために作曲した 。
1829年 、ワルシャワに戻ったショパンはパガニーニ の演奏を聴き、ドイツのピアニスト・作曲家のフンメル と出会った。同年8月には、ワルシャワ音楽院での3年間の修行を終えて、ウィーン で華やかなデビューを果たす。彼は2回の演奏会を行い、多くの好意的な評価を得た。一方、彼のピアノからは小さな音しか出なかったという批判もあった 。続くコンサートは12月、ワルシャワの商人たちの会合で、彼はここで『ピアノ協奏曲第2番 Op.21 』を初演した。また1830年 3月17日 にはワルシャワの国立劇場で『ピアノ協奏曲第1番 Op.11 』を初演した。この頃には『練習曲集 』の作曲に着手していた[注釈 52] 。
11月蜂起 攻め込むロシア軍
演奏家・作曲家として成功したショパンは、西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。1830年 11月2日 、指にはコンスタンツィア・グワドコフスカからの指輪、また祖国の土が入った銀の杯を携えショパンは旅立った[注釈 56] 。ヤヒメツキ[注釈 44] はこう記している。「広い世界に出ていく。こうでなくてはならないと決まりきった目的は、これからもない 」。ショパンはオーストリア に向かったが、その次にはイタリア 行きを希望していた。
その後、11月蜂起 が起こる。ショパンの友人であり、将来的には実業家 ・芸術家のパトロン となる旅の仲間のティトゥス・ヴォイチェホフスキは戦いに加わるためにポーランドに引き返した。ショパンは一人ウィーン で音楽活動をするが活躍できなかった。ヤヒメツキはこう記す。「望郷の念に苦しみ、演奏会を開いたり曲を出版したりする当てがはずれたことで、成長し、精神的な深みを増した。彼はロマン派の詩人だったのが、祖国の過去、現在、未来を感じることができる霊感豊かな国民学派的詩人へと成長したのである。この時、この場所からでこそ、彼はポーランド全体を適切な見通しを持って眺めることができたのであり、祖国の偉大さと真の美しさ、そして悲劇と栄光の移り変わりを理解することができたのである 」。この蜂起を受けてウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ 行きを決断した。
1831年 9月、ウィーンからパリに赴く途上、ショパンは蜂起が失敗に終わったことを知る。彼は母語 のポーランド語 で「コンラッド(Konrad)[注釈 57] の最後の即興詩のような、冒涜に冒涜を重ねた言葉」を小さな雑誌に書き込んで、終生それを隠した[注釈 58] 。彼は家族と市民の安全が脅かされることや、女性がロシア兵に乱暴されることを懸念していた。また「親切だったソヴィンスキ大将[注釈 59] 」の死を悲しみ(ショパンは大将の妻に作品を献呈したことがあった)、ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪った。そして神がロシア軍にポーランドの反乱を鎮圧することを許したことに幻滅した。「それともあなた(神)はロシア人だったのですか[注釈 60] 」。こうした心の痛みによる叫びは『スケルツォ第1番 』『革命のエチュード 』などを作曲した 。
パリ時代
『ショパンのポロネーズ』 テオフィル・クヴィアトコフスキ[注釈 61] 作[注釈 63] 。
パリ に到着したが、このときはまだこの地に居を構えるか迷っていた 。最初は、現在のパリ2区 ポワソニエール大通り (Boulevard Poissonnière ) 27番地に住み 、翌1832年 に現在の9区 シテ・ベルジェール (Cité Bergère )、1836年 に同ショセ=ダンタン通り 38番地へ転居したように 、実のところ彼は二度とポーランドに帰国することはなかったので、多くの「ポーランドの大移民[注釈 64] 」の一人となったことになる 。1832年 2月に開いた演奏会では、誰もがショパンを賞賛した。大きな影響力を持っていた音楽学者・批評家のフェティス は「ルヴュ・ミュジカル誌 Revue musicale 」にこう記した。「ここにいる若者は、完全なるピアノ音楽の刷新ではないとしても、とにかく長きに渡って希求されつつも果たされなかったこと、つまり史上かつてないような途方もない独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げたのである 」。その3ヶ月前の1831年 12月には、シューマン がショパンの『ラ・チ・ダレム変奏曲 Op.2』を評して「一般音楽新聞 Allgemeine musikalische Zeitung 」にこう記している。「諸君、脱帽したまえ、天才だ 」
パリでショパンは芸術家や他の著名人と出会い、才能を磨き名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得た 。彼はベルリオーズ 、リスト 、ベッリーニ 、ヒラー 、メンデルスゾーン 、ハイネ 、ドラクロワ 、チャルトリスキ公 、ヴィニー 、アルカン らと交友関係を築いた 。
ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者だったが 、フランスではフランス式の名前を名乗っていた。フランスの旅券 で旅行していたが、これはロシア帝国発行の書類に頼るのを避ける必要があったためではないかと思われる[注釈 65] 。このフランスの旅券が発行されたのは1835年 8月1日 であり、これを境にショパンはフランスの市民となった 。
ショパンがパリで公開演奏会を行うことはほとんどなかった。後年、彼は300席を擁するサル・プレイエルで毎年1回コンサートを行うようになるが、それよりも彼が頻繁に演奏を行ったのはサロン だった。サロンは貴族や芸術・文学のエリート の集まる場だったが、彼はパリの自宅で友人との小さな集まりを開いて演奏するのをより好んでいた。彼の健康状態は思わしくなく、そのためヴィルトゥオーゾ としてあちこち外遊することはできなかった。一度ルーアン で演奏した他には、首都を出て旅をすることはほとんどなかったという 。彼は教育・作曲によって高収入を得ていたため、もともと好きではなかった演奏会を開かなければならないという重圧から逃れることができた 。アーサー・ヘドレイ[注釈 66] はこう見ていた。「生涯を通じてわずか30回を少し超えるくらいという、できるだけ公の場に出なかったショパンが、ピアニストとして最大級の名声を獲得していたことは特殊なことである 」
1835年 、ショパンはカールスバート に行き、そこで生涯最後となる両親との再会を果たした。パリへ戻る途中でザクセン州 を通った彼は、ドレスデン でワルシャワ時代に親交のあったポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵(Wodziński)一家に会った。5年前にポーランドで顔見知りだった娘のマリア (英語版 ) はその時16歳になっていた。その若い彼女の知的で、芸術の才にも優れた魅力的な様子に、彼は恋に落ちてしまう[注釈 67] 。翌1836年 の9月にはヴォジンスキ一家とマリーエンバート での休暇を取り、ドレスデンに戻るとすぐにショパンは彼女にプロポーズする。彼女は求婚を受け入れ、その母のヴォジンスカ夫人も一応認めたものの、マリアがまだ若かったこととショパンの健康状態の悪さ[注釈 68] によって結婚は無期限の延期を余儀なくされる。この婚約は世に知らされることはなく、結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念から破棄したことにより 、結婚はついに現実のものとはならなかった[注釈 69] 。ショパンはマリアからもらったバラの花、そしてマリアとその母からの手紙を1つの大きな紙包みにまとめ、その上に「我が哀しみ Moja bieda 」と書いた 。
ショパンのマリアに対する想いは、9月のドレスデンを去る朝に書かれた「別れのワルツ」として知られる『ワルツ 変イ長調 』に残されている。パリに戻ったショパンはすぐに作品25の『練習曲集 』の第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」と述べた。これと同時に、彼はマリアに7つの歌曲を贈った。それらはポーランドロマン派[注釈 70] の詩人たち、ステファン・ヴィトフィツキ[注釈 71] 、ヨゼフ・ザレスキ[注釈 49] 、アダム・ミツキェヴィチ の詩に曲をつけたものだった 。
婚約破談後は、ポーランド人のポトツカ伯爵夫人 がショパンにとって創作上の、また女性として興味を注ぐ対象となった。彼は伯爵夫人に有名なワルツ作品64-1『子犬のワルツ 』を献呈している 。
パリにいる間、ショパンはわずかな数の公開演奏会に参加した。そのようなプログラム 掲載の参加者目録を見ると、この時期のパリがいかに芸術的に豊かな場所だったかがわかる。例えば、1833年 3月23日 の演奏会ではショパン、リスト 、ヒラー がバッハ の『3つの鍵盤楽器のための協奏曲 』を演奏し、1838年 3月3日 にはショパン、その弟子アドルフ・グートマン (英語版 ) 、アルカン とその師のピエール・ジメルマン [注釈 72] の4人で、アルカンのピアノ8手用編曲でベートーヴェン の『交響曲第7番 』を演奏している。
また、ショパンはリストのベッリーニ の主題による『ヘクサメロン変奏曲 』の作曲に参加し、最後の第6変奏を担当した。
ジョルジュ・サンドとの生活
ショパン
1836年 、友人であり仲間だった作曲家のリスト の愛人だったマリー・ダグー伯爵夫人 のホームパーティーの場で、ショパンはジョルジュ・サンド として知られるフランスの文筆家・男女同権運動家のアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)、デュドヴァン男爵夫人(Baronne Dudevant)と出会った。サンドの過去の恋人にはジュール・サンドー[注釈 73] (2人が文学において協力関係にあったことで「ジョルジュ・サンド」というペンネーム が誕生した)、プロスペル・メリメ 、アルフレッド・ド・ミュッセ 、ルイ=クリソストム・ミシェル(Louis-Chrysostome Michel)、作家のシャルル・ディディエール(Charles Didier)、ピエール=フランソワ・ボカージュ(Pierre-François Bocage)、フェリシャン・マルフィーユ[注釈 74] がいた 。
ショパンは当初、サンドに嫌悪感を抱いていた 。彼はヒラー にこう宣言している。「なんて不快な女なんだ、サンドというやつは!いや、彼女は本当に女性なんだろうか。疑いたくなってしまうよ 」。しかし、サンドは自らとショパンの共通の友人のヴォイチェフ・グジマワ伯爵(Wojciech Grzymała)に32ページにわたる率直な手紙をしたため、そこで彼に対する強い感情を認めている。その手紙の中で、彼女は自分がショパンとの関係を始めるために現在の恋人を捨てるべきか思案しており、またショパンとマリア・ヴォジンスカの以前の関係がいかなるものだったかを知ろうとしていると述べている。マリアとの関係については、万一まだ続いているのであれば彼女は邪魔したくないと考えていた 。1838年 の夏、ショパンとサンドの関係は公然の秘密となった 。
彼らが2人でいた時期の特筆すべきエピソードには、大荒れで悲惨だったマヨルカ島 での冬(1838年 11月8日 - 1839年 2月13日 )が挙げられる。彼らとサンドの2人の子供は、ショパンの悪化する健康状態が改善するよう願ってその地へ赴いた。しかし宿泊施設を見つけられず、4人は景色は良いながらも荒れ果てて寒々とした、ヴァルデモッサ[注釈 75] のかつてカルトジオ会 の修道院 だった建物の軒を借りざるを得なくなった 。
ショパンもまた自分のプレイエル のピアノを輸送するのに問題を抱えていた。ピアノは12月20日 にパリから到着していたが、税関 で止められてしまったのだ。ショパンは12月28日 にこう記している。「私のピアノが税関に引っかかって8日目になる。彼らがピアノを渡すために要求している金額は、信じられないほど高額なのだ」。その間、ショパンはガタガタのピアノを借りて、それで練習をし、作曲を行った。
12月3日 、ショパンは体調の悪さとマヨルカ島の医師が無能なことに不満を呈している。「この2週間の間、私は犬のように病にかかっている。3人の医者が往診に来た。1人目は私が死ぬと言い、2人目は今吸っている息が最後になると言い、3人目は私がすでに死んでいると言った」
1839年 1月4日 にジョルジュ・サンドが300フラン (要求額の半分だった)を払うことを承諾し、プレイエルのピアノは税関を通過することができた。それが届いたのは1月5日 だった。その後ショパンは待ちわびた楽器をほぼ5週間にわたって使えるようになり、その十分な時間でいくつかの作品を完成させた。『前奏曲 Op.28 』の数曲、『バラード第2番 Op.38 』の改定稿、Op.40の『2つのポロネーズ(第3番 と第4番 )』、『スケルツォ第3番 Op.39 』、『マズルカ Op.41 』のホ短調、そしておそらく手を入れたであろう『ピアノソナタ第2番 Op.35 』である [要出典 ] 。このマヨルカ島でのひと冬は、ショパンの生涯の中でも最も創造的な期間の1つと考えられている。
冬の間の悪天候はショパンの健康に深刻な影響を及ぼし、慢性的な肺の疾患から彼の生命を救うために一行は島を去らざるを得なくなる。愛用のフランス製のピアノは急な帰国の邪魔になった。そのような状況だったが、サンドはなんとかピアノをフランス人夫婦に売却した[注釈 76] 。
4人の一行はまずバルセロナ へ、次にマルセイユ へと向かい、そこで数か月滞在して回復を待った。1839年 5月、彼らはサンドの別荘で夏を過ごすためにノアン [注釈 77] を目指した。彼らは秋にはパリへ戻り、最初は離れて暮らした。ショパンはすぐに現在のパリ8区 トロンシェ通り(rue Tronchet )5番地のアパートを離れ、現在の9区 ピガル通り(rue Pigalle )16番地のサンドの家へ移り住んだ。4人はその住所で1839年 の10月から1842年 の11月まで一緒に暮らしたが、1846年 まで夏季のほとんどはノアンで過ごした 。彼らは1842年 に現在のパリ9区スクワール・ドルレアン(Square d'Orléans )があるテブー通り(rue Taitbout )80番地に移り、隣同士の建物で暮らした 。
マヨルカ島の修道院
マヨルカ島に遺されたショパンのピアノ
ショパンの住居の銘板
サンドの住居の銘板
この時期にショパンがピアノ以外の楽器を演奏したという証拠がある。ナポリ で急逝したテノール 歌手のアドルフ・ヌリ[注釈 78] の遺体が埋葬のためにパリへ戻った際、その葬式でショパンはシューベルト のリート 『天体 Die Gestirne 』のオルガン 編曲を演奏した 。
ノアンでの夏、特に1839年 から1843年 にかけてはショパンにとって静かながらも創造的な日々となり、そこで多くの作品を生み出した。ショパン作品の中でも有名な『英雄ポロネーズ Op.53 』もそうした作品である。サンドはショパンの騒々しい創作の過程について記している。ショパンは情熱に溢れ、涙を流し、不平を口にしつつ、時には着想そのものまで覆してしまうほど多くの構想の見直しを行った。友人のドラクロワ と過ごしていた、ノアンでのある午後のことである。
ショパンはピアノに向かっており、誰もがあからさまに耳を傾けている。彼は気ままな
即興演奏 を始めたが、止めてしまった。ドラクロワが声を上げた。「続けて、続けて!まだ終わってないよ!」「始まってもいないよ。何も思い浮かばないんだ……ただ反射と影、形の定まらないものだけしか出てこない。ちゃんとした色を見つけようとしてるんだけど、形すら決まらないんじゃ……」ドラクロワはこう声をかける。「どっちか片方だけ見つかるっていうことはないだろうさ。二つは一緒に現れるものだから。」「もし月明かりしか見つからなかったらどう?」「ということは反射の反射を見つけたということだろう」。この言葉がショパンの腑に落ちたらしい。彼は再び演奏をはじめ、今度は形に不安そうな様子は見せなかった。次第に静かな色が姿を現し、それに伴ってまろやかな音の抑揚が我々の耳に届いてくる。突如青色の音が歌い始めたかと思うと、夜が我々をすっぽり包む。それは真っ青に透き通った夜だ。明るい雲が素敵な形となって空を覆う。雲は月と一体となり、大きな朧げな円を描く。そして眠っていた色が目を覚ますのだ。我々は夏の夜を思い描きつつ、そこに座って
ナイチンゲール が歌うのを待つのである……
。
ショパンの病が進行するにつれて、サンドは彼の恋人というより看護師となっていった。サンドはショパンを自分の「3番目の子ども」と呼んでおり、その後の数年間は彼女はショパンとの交友関係を維持しつつも、しばしば第三者に宛てた手紙の中で彼に対する苛立ちを吐露していた。そうした手紙の中では、彼のことを「子ども」「小さな天使」「受難者」「愛しい小さな死人」などと記していた 。
1845年 、ショパンの病状が悪化を続ける中、彼とサンドの間に深刻な問題が生じた。1846年 には彼女の娘のソランジュ(Solange)と若い彫刻家のオーギュスト・クレサンジェ との関係などの諸問題によって、2人の関係はますます険悪になった。サンドは1847年 に小説『ルクレツィア・フロリアーニ Lucrezia Floriani 』を出版した。主人公の裕福な女優と身体の弱い王子は、サンドとショパンのことを指すと解釈できる。サンドのゲラ刷りの校正を手伝ったショパンが、彼にとって失礼なこの話の内容を見逃すはずはなかった。1847年 、彼はノアンを訪れなかった。共通の友人たちは2人を和解させようと試みたものの、ショパンが応じることはなかった 。
そのような友人の1人にメゾ・ソプラノ のポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド がいる。サンドは1843年 にヴィアルドをモデルに小説『コンシュエロ Consuelo 』を執筆しており、三人はノアンで多くの時間を共に過ごした。ヴィアルドは著名なオペラ歌手だったが、元来ピアノで身を立てることを希望しておりリスト とレイハ に師事する優れたピアニストでもあった。彼女はショパンと互いに尊敬しあい、また気が合ったことから友人として付き合っていた 。2人はしばしば共演することもあった。ショパンは彼女にピアノの技術的な助言を与え、彼女がショパンの『マズルカ 』の旋律をもとに歌曲を作曲するのを手伝った。彼はお返しとして、ヴィアルドからスペインの音楽 を直接知ることができた 。
1847年 、サンドとショパンの10年に及ぶ関係は静かに終わりを迎えた 。なれそめから2人の恋路を見届けたヴォイチェフ・グジマワ伯爵はこう述べている。「もし(ショパンが)G.S. (ジョルジュ・サンド)に出会うという不幸に見舞われず、彼女にその生命を毒されなかったとしたら、彼はケルビーニ の歳まで生きていただろうに[注釈 79] 」
晩年
スターリング 1830年 頃 ドゥヴェリア[注釈 81] 作の肖像画
ショパンのヴィルトゥオーゾ としての一般からの人気は翳りを見せ、それに伴って弟子の数も減少した。1848年 に彼はパリでの最後の演奏会を開く。パリでは革命 が進行中だった4月[注釈 82] 、彼はロンドン へと旅立ちいくつかのコンサートを行って大規模な会場で大きな喝采を受けた 。この演奏旅行は彼のスコットランド人の弟子で、時に秘書もこなしたジェーン・スターリング とその姉のキャサリン・エースキン(Katherine Erskine)の発案によるものだった。また、スターリングは必要な準備をすべて整え、必要経費を提供した。彼女はサンドとの別離の後、脱出できない鬱状態に陥ったショパンの支えとなった 。
夏も終わりかけた頃、ショパンはスターリングに招かれて、スターリング家の者が所有するエディンバラ 近郊のカルダー邸(Calder House)と居城(グラスゴー に程近いレンフルーシャー のジョンストン[注釈 83] にあった)に滞在した。そうしているとスターリング嬢とショパンが間もなく婚約を発表するという噂が国を超えて広がったが、ショパンが彼女に恋愛感情を抱いていないことは明らかだった。エディンバラでは開業医 のアダム・ウィシュツジニスキ(? Adam Łyszczyński)医師の住むワリストン街路(Warriston Crescent)10にも滞在しつつ、そこで医師の治療を受けた。ショパンはあまりにも弱っており、階段の上り下りでは医師またはその召使が彼を抱えなければならなかった。ショパンはエディンバラでは1度だけ演奏会を開いている。それはクイーン通りのホープトーン・ルームズ(Hopetoun Rooms 現エースキン邸)においてだった 。
1848年 10月の暮れ、ウィシュツジニスキ医師の家で[注釈 84] 、ショパンは最後の遺言をしたためた。「万一私がどこかで急死するようなことになったら、将来私の原稿は処分等がなされるように」と友人のヴォイチェフ・グジマワに宛てて書き送っている。スコットランドの寒い午後、スターリング嬢の城の中でショパンは母や姉と共にいる空想にふけり、祖国の地で民謡を題材とした自作曲を演奏する自分の姿を眼前に思い浮かべていた 。1848年 11月16日 、彼はロンドンのギルドホール[注釈 85] の演奏段上で最後の公開演奏を行った。それはポーランドの避難民の慈善演奏会だったが、彼の最後の愛国的行動となった 。この時の彼の出演は善意からの失敗となってしまった。ほとんどの参加者はショパンのピアノ芸術よりもダンスや気晴らしを目的としており、ショパンはそれによって多大な労力を割いて身体的不快感を負ってしまったのである 。
11月の終わりにショパンはパリへ戻った 。イギリス旅行はロンドンでのヴィクトリア女王 の御前演奏など成功したものだったが、日程の厳しさから彼は体調を更に悪化させていた 。冬の間、彼は絶え間なく病に苦しんでいたが、それでも友人に会うことを続け、病床のアダム・ミツキエヴィチ を見舞ってピアノ演奏で彼の神経を和らげた。ショパンにはレッスンを行う体力はもはやなかったが、作曲への熱意は冷めていなかった。生活必要経費の大半と医師の診察代を払う金も不足するようになり、彼は価値のある家具や所有物を売り払わなければならなくなった 。
2011年 3月24日 、ワルシャワのフレデリック・ショパン博物館が長く行方不明だったショパンの手紙を発見した。それらの手紙の日付は1845年 から1848年 とされており、彼の日常生活と『チェロソナタ 』に関する記述がなされている。手紙は博物館で2011年 4月25日 まで展示されていた 。
最期
『死の床にあるショパン』 1849年 テオフィル・クヴィアトコフスキ[注釈 61] 作 [注釈 86]
ショパンは家族と共に居たいという思いを募らせた。1849年 6月、姉のルドヴィカにパリへ出てきてもらう約束を取り付けた 。同年9月には最後の住居となるヴァンドーム12 の陽の当たるきれいなアパートに移り住んだ 。それは以前はロシア大使館が入居していた物件で、7部屋を有する2階の賃料はショパンに払えるものではなかったが、ジェーン・スターリングが彼のためにそれを肩代わりした 。
10月15日 になるとショパンの病状は一層深刻となり、彼を訪ねてくる多くの者は会うことを許されず、一握りの近しい友人のみが病床に寄り添った。この最期の2日間で彼らは2回ほどショパンが事切れたものと思ったが、彼は再び息を吹き返すことができた。ポトツカ夫人が見舞いに訪れており、病床の彼のために歌を歌っている。また、彼はポトツカ夫人にソナタを弾いてくれるよう頼み、神に大きな声で祈りをささげた。もっとも、その数日前には自分は神の存在を信じないからと、信仰告白を拒んでいた。彼はジョルジュ・サンドが自分に「私の腕の中で息を引き取らせあげる」と約束したのに、と不平を口にした。彼は紙片を要求し、そこにこう記した。「Comme cette terre m'étouffera, je vous conjure de faire ouvrir mon corps pour je ne sois pas enterré vif. (土に押しつぶされるから埋葬しないで欲しい。生き埋めになりたくないんだ。) 」。10月17日 の深夜12時過ぎ、医師がショパンの身体に乗りかかってひどく苦しいかと尋ねた。「もう何も感じない」とショパンは答えた 。そして午前2時を回る少し前、ショパンは息を引き取った 。
ショパンの病とその死因は明らかになっておらず、そのため医学的な議論の的となってきた。死亡診断書では死因は肺結核 とされている。一方でショパンの病気は他の疾患(たとえば遺伝子疾患 の嚢胞性線維症 など)とする説もある 。しかし、現代の呼吸器治療と医療的支えのない19世紀 において、嚢胞性線維症を抱えながら39歳まで生き延びることは事実上不可能という検討もさらになされ得る 。ショパンが長く苦しんだ病についての総説が2011年 に出版されている 。文脈から事実を読み解くと、ショパンを苦しめた疾病は肺結核の可能性が高い[注釈 87] 。
ショパンの最期を看取ることができなかった多くの人が、後になって「ショパンの最後に居合わせた」と主張するようになったと、タッド・シュルツ(? Tad Schulz)は記している。彼らは「歴史の証人になりたがっているようだ 」。実際にショパンの死の床に付き添ったのは、姉のルドヴィカ、マルツェリーナ・チャルトリスカ公爵夫人[注釈 88] 、ソランジュとオーギュスト・クレサンジェ 夫妻、ショパンの弟子で友人のアドルフ・グートマン、友人のトーマス・アルブレヒト(Thomas Albrecht)、信頼を置いていたポーランドのカトリック教会 司祭 のアレクサンダー・イェウォヴィツキ(Aleksander Jełowicki)神父だった 。
夜が明けてから、クレサンジェはショパンのデスマスク を作り、また彼が傑作を生み出した左手の型を取った。彼の遺言に従い、葬儀の前に取り出された心臓は姉のルドヴィカによって祖国に持ち帰られ、クラコフスキ区[注釈 36] の聖十字架教会[注釈 89] のレオナルド・マルコーニ[注釈 90] 作のエピタフ の下の柱に、コニャック と思しきアルコールに浸けられて収められた 。そこにはマタイによる福音書 6:21「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」が刻まれている。ショパンの心臓は第二次世界大戦中に避難のため持ち出された時を除き、その教会で眠っている。現在の教会は1944年 のワルシャワ蜂起 で大きく破壊されて再建されたものである。教会はショパンが最後に住んだポーランドの家であるクラコフスキ区5のクラジンスキ宮殿[注釈 37] からすぐ近くのところにある。
ワルシャワの聖十字架教会
ショパンの心臓が埋め込まれている柱
葬儀
パリのマドレーヌ寺院 で行われることになっていた葬儀は、準備が非常に凝ったものとなったため、ほぼ2週間も遅れて10月30日 に行われることになった。予定が遅れたため通常なら出席不可能であるような人びとが大勢ロンドン、ベルリン、ウィーンから集まることができた 。招待された参列者には多くのフランスの文学・貴族の名士らが名を連ねたが、音楽上の同胞たちは慎重に外された 。
モーツァルト の『レクイエム 』が歌われることが、急遽決められた。これはショパンの遺言とも言われたが、友人のグートマンはショパンがそのようなことを頼んだことはなく、報道の自由から生まれた夢物語であるとしている。ショパンの死から葬儀の間までにパリでは彼にまつわる膨大な出版物が出回っており、その中のいくつかの創作が後に事実のように本に記載されていったようである 。『レクイエム』は大部分が女声合唱 によって歌われるが、マドレーヌ寺院は合唱隊に女性歌手が入ることを許可していなかった。しかし、教会は女性歌手を黒いベルベット のカーテンの奥に置くこととして、好意的に協力した。『レクイエム』のソリスト は、ソプラノ がジャナネ・カステラン(? Jeanne-Anais Castellan) 、メゾソプラノ がショパンとサンドの友人だったポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド 、テノール がアレクシス・デュポン[注釈 93] 、バス がハイドン やベートーヴェン 、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ の葬儀でも歌ったルイージ・ラブラーケ[注釈 94] である。また、ショパンの『前奏曲集 』から第4番 ホ短調と第6番 ロ短調が演奏された。葬儀には3,000人近くが参列したが、その中にジョルジュ・サンドの姿はなかった。
葬送の行進は町の中央のオペラ座 の隣にある教会から始まり、ショパンが埋葬を希望していた街の東の端のペール・ラシェーズ墓地 までの非常に長い距離にわたった。葬列を先導したのはポーランドの大移民の長だった年老いたチャルトリスキ公 であり、芸術家たち(ウジェーヌ・ドラクロワ やチェリスト のオーギュスト・フランショーム 、ピアニストのカミーユ・プレイエル(Camille Pleyel)など)が交代で担いだ棺のすぐ後ろには、姉のルドヴィカがいた 。
埋葬の際には、その横でナポレオン・アンリ・ルベール[注釈 95] の管弦楽編曲 によるショパンの『葬送行進曲 』が演奏された 。このことについて、参列していたジャコモ・マイアベーア は後年、自分が編曲者として選ばれなかったことに失望したと述べている 。
ショパンの墓石はオーギュスト・クレサンジェが設計・製作したもので、音楽のムーサ のエウテルペー が壊れたリラ の上で涙を流す姿をかたどったものである。葬儀と碑の製作にかかった費用は合計5,000フラン だったが、姉のルドヴィカがワルシャワへ戻る渡航費用も含めて、全てはジェーン・スターリング が負担した 。スターリングはその後長い間、黒衣に身を包み喪に服していた(生涯そうしていたとする文献もある[要出典 ] )。
ショパンの墓には多くの人が訪れ、冬場でも捧げられる多くの花が絶えることはない。
人物
生涯を通じて肺結核 に悩まされた病弱の芸術家として有名であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬などその徴表が見られる。しかしそうした繊細なイメージとマッチした作風の曲ばかりでなく、自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや、大国ロシア帝国 に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。
幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのも得意で学校ではクラスの人気者だったという。
後半生は大部分をフランスで過ごしたが、望郷の思いは終生已まず、死後遺言により心臓がポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン )と評されることもある。
女性との愛の遍歴も伝説を交えて語られることがあるが、特に年上の女流作家ジョルジュ・サンド との9年におよぶ交際の間には『24の前奏曲集』『幻想曲』『バラード第4番』『英雄ポロネーズ』『舟歌』『幻想ポロネーズ』など多くの傑作が生まれた。
ピアノの技術革新の時代に生きたショパンは新しい演奏技術の開拓に果敢に挑み、自身の練習の意味も込めて『練習曲集』(『3つの新練習曲』を除く12曲)を2つ編んだ。一方で古典の作曲家への敬意は強く(実際ショパンは自身がロマン派に属するという考えを否定した)、特にバッハ とモーツァルト は彼の作品に影響を及ぼした。例えば『24の前奏曲集』は5度循環で24の全長短調を経る小品集だが、これはバッハの『平均律クラヴィーア曲集 ・24の前奏曲とフーガ』を意識したものである。また心を落ち着けるためにバッハの平均律をしばしば好んで弾いた。『前奏曲作品28』を作曲したマヨルカ島に持っていった印刷された楽譜は、バッハの平均律クラヴィーア曲集のみだったという。
同時代の有名な作曲家で評論家でもあったシューマンとは違い、批評活動は全く行わず、音楽作品と文筆作品(ことに詩)との融合にもあまり積極的ではなかったという。
性格が激しく、それ故にしばしば欲求不満に陥ることもあったらしい(例えば1830年 にウィーン に来た時の、一般の音楽的嗜好が浅薄なものだったことに対して )。
写真 は2枚残されており 、1846年の写真 は損傷が激しい。もう1枚は、死の直前にルイ=オーギュスト・ビソン (英語版 ) によって撮られたものである。
ルイ=オーギュスト・ビソンによる晩年のショパン
2011年 3月にショパンの死後撮影された写真を発見したとポーランドの写真収集家が発表した 。この写真には、ベッドに仰向けに横たわるショパンの横顔が写されており、ビソンの署名がある。しかし、ショパン博物館の学芸員・パリのポーランド図書館の写真専門家・ショパン研究家の3者は、この写真を偽造としている[注釈 96] 。
2017年 1月にスイスの物理学者アラン・コーラーによる新たな写真の発見が発表された 。
ショパンの書簡に関する問題
ショパンの書簡については、作品同様に戦乱によってその大部分が消失していること、ティトゥス・ヴォイチェホフスキ (英語版 ) ら一部の友人及びモーリッツ・カラソフスキ (ポーランド語版 ) ら後世のポーランドの伝記作家が国粋主義的 な動機から改竄を加えたことなどから、友人による写しなどソースが怪しいものが多く、それらにもとづく虚実不明のエピソードが現在に至るまで流布している 。
代表的な事例として、第二次大戦直後にポーランドの音楽研究家パウリーナ・チェルニツカが、ショパンがデルフィヌ・ポトツカ 伯爵夫人に書いたという大量の書簡を公表した、というケースがある。これらにはショパンの私生活に対する言及や彼の音楽思想、他の音楽家に対する批評が多く含まれていたため議論を巻き起こした。彼女は原本の公開を拒否したまま謎の自殺を遂げたが、現在では(一部に議論はあるが)少なくとも大部分が彼女による偽作とされている。1950 -60年代 に書かれた伝記などにはこれらの書簡を引用したものが多い。ちなみに、ショパンがポトツカ伯爵夫人に書いた本物の手紙は一点のみ現存している 。
作品
ショパンは、多くのピアノ作品を残したが、その中には未知の作品や、原稿消失作品が複数あることが確認されている。出版されている作品についても、戦乱により自筆譜が失われているものが多い。
ショパンの作品にはいろいろと逸話のあるものが多く、それらの中にはきちんと確証の持てないものも多い。サブタイトルは、ショパンが曲にタイトルを付けることを好まなかったため、ほとんどはショパン自身によるものではない。
ショパンは、遺言で自分の未出版作品の破棄を希望していたが、その希望は受け入れられず、友人でもあったユリアン・フォンタナ をはじめとするショパン研究者によって出版された。主な遺作には、『幻想即興曲 』『レント・コン・グラン・エスプッレシオーネ 嬰ハ短調(夜想曲 第20番) 』などがある。
フォンタナは、ショパンの原稿を整理し、また作曲年代に関係なく作品番号を付けて出版した。遺作にあたる作品66から74は、フォンタナによって付けられた作品番号である。
なおショパンの作品の分類番号は2つある。KK(クリスティナ・コビラィンスカによる作品番号のついていない作品)とBI(モーリス・ブラウンによる作品分類番号)の2つである。ヤン・エキエルは、彼自身が編纂しているナショナル・エディション(ショパン全集)の中で、作品番号の付いていない作品に限って、WN(Wydanie Narodowe = ナショナル・エディション)というエキエル独自の作品分類番号を記している。
編曲
オーケストラ曲
有名なものとして、いくつかの楽曲にオーケストレーション を施してまとめた数種のバレエ音楽がある。
レ・シルフィード (Les Sylphides) - 1909年 初演のバレエ曲目。バレエ演目としてのショパンの編曲では最も有名なもの。編曲者は多数にわたるが、次項のグラズノフを含む。ラ・シルフィード (La Sylphide) - 1835年 初演のバレエ曲目と混同される事があるが、こちらはショパンとは関係ない。
ショピニアーナ (Chopiniana) - グラズノフ 編曲によるもの。バレエ音楽としての『レ・シルフィード』そのものを指す場合と、『レ・シルフィード』からグラズノフの編曲によるものをさらに抜粋した演奏会用組曲を指す場合がある。英雄ポロネーズや軍隊ポロネーズ、ノクターンやマズルカなどにオーケストレーションが施されている。
ピアノ曲
歌曲
ポーリーヌ・ヴィアルド 『6つのマズルカ』 - ルイ・ポメ(Louis Pomey)のフランス語の詞による歌曲への編曲。ショパンの面前でも演奏された 。
第1集(1864年 出版)作品6-1・作品7-1・作品24-1・作品33-3・作品50-2・作品68-2の編曲。
第2集(1888年 頃出版)作品6-4・作品7-3・作品24-2・作品33-3・作品50-1・作品67-1の編曲。
楽器
ワルシャワ在住時にショパンが作曲と演奏に使っていた楽器は、ブッフホルツ 製のピアノであった 。この楽器については、2018年にポール・マクナルティ が復元楽器を製作し、ワルシャワ大劇場 で公開演奏されたほか 、ショパン研究所 主催の第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール で使用されたことが知られている 。
ショパンはその後、ワルシャワを離れたパリ在住時に、プレイエル から楽器を購入した。彼はプレイエルのピアノを、「ノン・プルス・ウルトラ」(極致!)と評価している 。パリでショパンと交友関係にあったリスト は、ショパンのプレイエルの音を「クリスタルと水の結婚」のようだと述べている 。
また1848年にロンドンに滞在していたショパンは、自分のピアノ3台について「大きな応接間にはピアノが3台あり、プレイエル1台、ブロードウッド 1台、エラール 1台がある。」 と手紙に記している 。
楽譜
ポーランド音楽出版社(パデレフスキ版およびエキエル版)やヘンレ社 やペータース社などの原典版 楽譜では、ショパン自筆の楽譜と、フォンタナやその他の編集者による楽譜が掲載されており、比較することができる。
パデレフスキ版
ショパン旧全集(全27巻)イグナツィ・パデレフスキ編集。クラクフ版と呼ばれることもある。 全27巻の中から1曲または数曲を収めたピース版と作品選集も刊行されている。
エキエル版
ショパン・ナショナル・エディション財団(FWN = Fundacja Wydania Narodowego Dziel Fryderyka Chopina)ショパン新全集(全37巻)ヤン・エキエル編集。通称「エキエル版」または「ナショナル・エディション」(補遺作品集以外は、2010年に完結)1995年に装丁デザインが変更された。要約及び校訂報告がポーランド語版だけでなく英語版も出版された。一部の楽譜ではフランス語版とドイツ語版も出版されている。2021年5月からは全音楽譜出版社より日本語版が順次出版されている。
ペータース社 版
ブロニスラウ・フォン・ポツニアク(ブロニスワフ・プズニャク)とヘルマン・ショルツ編集
ショパン全集・新校訂による原典版(ロンドン・ペータース社から現在刊行中)
ウィーン原典版
ヤン・エキエル編集。ただし、エチュード集がパウル・バドゥラ=スコダ 編集、24の前奏曲作品28がコンラート・ハンゼン編集、ポロネーズ集[注釈 98] とアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ作品22がクリスティアン・ウーバー編集。
ヘンレ社原典版 (通称「ヘンレ版」)
旧ショパン集・Ewald Zimmermann校訂による旧原典版 1980年代の校訂。
新ショパン集・Norbert Müllemann校訂による新原典版 2010年代以降の校訂。
サラベール社 版(アルフレッド・コルトー による校訂。通称 「コルトー版」)
デュラン社 版(クロード・ドビュッシー による校訂)
音楽之友社 版
春秋社 版(井口基成 による校訂)
全音楽譜出版社 版
エチュードのみ原典版に基づく山崎孝校訂版もある。
メディア
ショパンははじめこの曲をピアノと声楽のために書いたが、リスト によってピアノ独奏曲に編曲された。
作品57 。Veronica van der Knaapによる演奏。
うまく聞けない場合は、サウンド再生のヒント をご覧ください。
ピリオド楽器による録音
Alexei Lubimov. Chopin, Bach, Mozart, Beethoven. At Chopin’s Home Piano . Played on the 1843 Pleyel piano.
Krzysztof Książek. Fryderyk Chopin, Karol Kurpiński. Piano Concerto No.2 f-moll (solo version), Mazurkas, Ballade ; Fugue & Coda B-dur. Played on a copy of a Buchholtz piano made by Paul McNulty.
Viviana Sofronitsky, Sergei Istomin. Fryderyk Chopin. Complete works for cello and piano . Played on a copy of the 1830 Pleyel and the 1819 Graf instruments made by Paul McNulty.
Dina Yoffe. Fryderyk Chopin. Piano Concertos No. 1 & 2, version for one piano . Played on the1848 Pleyel and the 1838 Erard pianos.
Riko Fukuda, Tomias Koch. Chopin, Mendelssohn, Moscheles, Hiller, Liszt. Grand duo Œuvres pour duo de pianofortes . Played on the 1830 and 1845 Graf pianos.
Tomasz Ritter. Fryderyk Chopin. Sonata in B Minor, Ballade in F minor, Polonaises, Mazurkas. Karol Kurpinski. Polonaise in D minor . Played on the 1842 Pleyel piano, the 1837 Erard piano and a copy of Buchholtz piano from ca 1825-1826 made by Paul McNulty.
フレデリック・ショパンを扱った作品
題名及び歌詞に出てくる楽曲
映画
小説・漫画
ゲーム
アニメ
舞台
脚注
注釈
^ 姓のショパンについては、ショパンと同時代のポーランド語文献では Szopę (Chopin) というポーランド語式発音綴りと仏語式綴りの併記が多く見られ(ę は鼻母音) 、近世以降はポーランド語化が進み格変化 をもつ Szopen という綴りが Chopin と共に一般的だった。
^ 国際音声記号 による発音表記は 。
^ モーリッツ・カラソフスキ 『ショパンの生涯と手紙』の第2章冒頭で述べられている説である。ドイツ語版 (1877年出版)、ポーランド語版 (1882年出版)、日本語版 (柿沼太郎 訳、1923年)
^ フランス語 le poète du piano、ポーランド語 poeta fortepianu、英語 the poet of the piano、ドイツ語 der Poet am Klavierなど。
^ a b 1802年 生まれ。ポーランドの画家。ショパンの肖像画で知られる。(Ambroży Mieroszewski )
^ ポーランド中央東寄り、マゾフシェ県 、ソハチェフ群の村。ワルシャワより52kmの位置にある。(Brochów )
^ a b ショパンには3人の姉妹、姉のルドヴィカ、妹のイザベラとエミリアがいた 。特に姉のルドヴィカ(1807年 4月6日 - 1855年 10月29日 )とは仲がよく、読み書きやピアノを彼女から教わった 。2人は終生仲睦まじく書簡を交わし、ショパンは彼女が『ピアノ協奏曲第2番 』を練習するために『夜想曲第20番 』を作曲した。ルドヴィカはショパンの臨終に立ち会い 、遺言に従い彼の心臓をパリからポーランドに持ち帰った。
^ a b ブロフフの聖ロフ教会のショパンの洗礼記録(ラテン語表記、4月23日付 )では、ショパンの生まれた日は2月22日 とされている。
^ 監獄を改修し、より刑罰に適した環境に造り変える仕事。(Prison Reform )
^ 戦時経済担当大臣(Minister of Economic Warfare )のヒュー・ダルトン(Hugh Dalton )によって組織された部隊。スパイ 、サボタージュ 、枢軸国 の偵察、各地の抵抗運動への協力を行っていた。
^ ジェラゾヴァ・ヴォラ 村にある伯爵 ウォンチニスキ家 (Łączyński)のマナー・ハウス 。ポーランド国立ショパン博物館分館。
^ ブロフフ村。ここでショパンの両親が結婚し、またショパンが幼児洗礼 と堅信礼 を受けた。
^ 「この聖域において、ジェラゾヴァ・ヴォラ 村で1810年 2月22日 誕生のフレデリック・ショパンが1810年 4月23日 に洗礼を受けた」
^ 写真はショパンが洗礼 を受けたときにも使われた聖水盤 。
^ ポーランドの言語学者・司書・辞書編集者。ワルシャワ中等学校の校長だった。
^ 1804年 開校のワルシャワのセカンダリー・スクール 。1830年 の11月蜂起 の後、ロシア帝国 に閉鎖された。
^ 1666年 建造。1944年 のワルシャワ蜂起 の後のドイツ軍による計画破壊(Planned destruction of Warsaw )でアーケード のみ残して消滅した。
^ 1660年 建造。サスキ宮殿同様の経緯で1944年 に破壊されたが、2006年 にEU の基金などによって再建された。
^ フランスのジャーナリスト・小説家。1824年 、カルヴァドス県 、イジニ・シュール・メール(Isigny-sur-Mer )生まれ。(Louis Énault )
^ 「ショパンは半生をパリで過ごしながらもポーランド人の性質を持ち続けており、『孤独な魂』であった。伝記作家のルイ・エノール(Louis Enault)はこう述べている。『スラヴ人は自らを快く貸しはするが、与えはしない。ショパンはポーランドよりもポーランド人的である。』」Bauer, Marion (March 2007). Music Through the Ages – A Narrative for Student and Layman . Google Books. p. 248. ISBN 978-1-4067-3941-1 . https://books.google.co.jp/books?id=kjJr5JcbH90C&pg=PA248&lpg=PA248&dq=george+sand+chopin+%22more+polish%22&redir_esc=y&hl=ja 2010年2月14日 閲覧。
^ 「両親の寮の下宿生のうち4人が、彼の親友となった。ティトゥス・ヴォイチェホフスキ、ヤン・ビャウォブウォツキ、ヤン・マトゥシンスキとユリアン・フォンタナ である。彼は(後に)後者2人とはパリでの生活を共にすることになる」Tad Szulc , Chopin in Paris , pp. 41–42.「Tytus Woyciechowskiは最も重要な人物で(中略)1827年 にBiałobłockiが結核で死亡してからは、フレデリックは彼を生涯で唯一の最大の信頼を寄せる腹心の友としたのである」Tad Szulc, Chopin in Paris , p. 42.
^ 1813年 生まれ。音楽活動・音楽評論活動などを行った。
^ Izydor Józef Cybulski; 彫刻師・作曲家・オルガン学校の校長で、ポーランドで数少ない音楽出版業を営んでいた
^ ポーランドの作曲家・外交官・政治家。スタニスワフ・ポニャトフスキ王 に仕え、為政を支えた。(Michał Kleofas Ogiński )
^ 1660年 建造。1818年 以降、パヴロヴィチの住居になっていたが、彼は11月蜂起 で追放される。(Belweder )
^ ベラルーシ 生まれのポーランドの詩人・劇作家・政治家。中級貴族の御曹司であり、アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ の側近として仕えた。(Julian Ursyn Niemcewicz )
^ ポーランド中央北寄りクヤヴィ=ポモージェ県 の村(Szafarnia )。ショパンは級友のドミニク家に招かれここを訪れた。 。
^ 現在のポーランド南西部ドルヌィ・シロンスク県 、チェコ との国境に位置する、19世紀 初頭にこの地方で栄えた温泉 リゾート の町。当時はプロイセン領 。若きショパンも温泉を目指して訪れた。1826年 には2度のチャリティーコンサート を開催し、チケット売り上げの全額を孤児支援基金に寄付した。現在では世界最大のショパン祭り が毎年開かれている。(Duszniki-Zdrój )
^ ポーランド中央、マゾフシェ県 の村。ワルシャワから西に約79km。(Sanniki )
^ これらは「シャファルニャ通信」と題された、新聞形式の手紙である。少なくとも6通が作成されたことがわかっており、うち4通は自筆原本が残っている 。
^ ショパンが想定していたのはクリエル・ヴァウシャフスキ紙であり、その書体・体裁を模して書かれている 。
^ 1824年 ・1825年 にショパンが滞在した。写真はシャファルニャのマナー・ハウス 。
^ 温泉 リゾート 。ショパンは1826年 に訪れた。
^ ショパンがワルシャワに移って最初に住んだ家。ワルシャワ大学 の構内だった。現在はワルシャワ大学東洋学部日本学科が入っている。
^ a b 宮殿や教会などに囲まれた、ワルシャワでも有名かつ誉れ高い一角。(Krakowskie PrzedmieścieKrakowskie Przedmieście ポーランド語発音: )
^ a b チャプスキ宮殿の別名。ポーランドでも優れたロココ調建築 の一つと考えられている。(Czapski Palace IPA: )
^ この場所は現在、ワルシャワ芸術アカデミー(Academy of Fine Arts in Warsaw )になっている。
^ 1821年 生まれ。ポーランドの詩人・劇作家・画家・彫刻家。ポーランド王ヤン3世 の血筋に当たる。(Cyprian Norwid (ポーランド語発音: )
^ ショパンがポーランドを離れる直前まで住んだワルシャワの家。チャプスキ家宮殿(チャプスキ家が購入する前のオーナーの名前を取りクラシンスキ家宮殿とも呼ばれる)。
^ 1808年 生まれ。実業家 ・芸術家のパトロン 。(Tytus Woyciechowski )
^ 1809年 生まれ。医師。(Jan Matuszyński )
^ 1880年 生まれ。ショパン研究家。1911年 にはラヴェル らと共にパリにショパン協会(Société Chopin )を設立している。(Édouard Ganche )
^ a b 1882年 生まれ。ポーランドの音楽史家・作曲家。ヤギェウォ大学 やクラクフ音楽アカデミー の教授を務めた。(Zdzisław Jachimecki )
^ ヤヒメツキのようなポーランド人作家の記した伝記には、多分にポーランド人としてのショパン、加えてそのナショナリズムを強調する傾向が見られるという指摘がある 。本文にはこの後もヤヒメツキの引用がある。参考にする際は注意。
^ Jachimecki , p. 421. Hedley , Encyclopædia Britannica , p. 264:「彼は生涯を通じて、叙述的な表題や『筋書き』を下敷きにするのを嫌悪するのと同様に、(美的な感覚に)重きを置いていた」。彼の作品には内容を表すかのような表題が付つけられているものがあるが、それは出版社などの他人が、彼の意に反して付けたものである。
^ 1810年 生まれ。ポーランドのソプラノ 歌手。1830年 にポーランドを後にするショパンの送別会で歌っている。2年後に結婚し、5人の子をもうける。1845年 に失明。1889年 にスキェルニェヴィツェ で死去。(Konstancja Gładkowska )
^ 1803年 生まれ。ポーランドの文学・演劇・音楽批評家。また、出版者・記者・ピアニストなどとしても活躍した。(Maurycy Mochnacki )
^ a b 1802年 生まれ。ポーランドの詩人。アダム・ミツキェヴィチ の友人だった。ウクライナ詩作学校(Ukrainian school )の創設に関わる。(Józef Bohdan Zaleski )
^ 1790年 生まれ。ポーランドの動物学者・昆虫学者。40年以上にわたってワルシャワ大学の動物学科を組織した。(Feliks Jarocki )
^ 1758年 生まれ。ドイツの作曲家・指揮者・教育者。メンデルスゾーン姉弟やマイアベーア などを教えた。(Carl Friedrich Zelter )
^ 初演時期などには異説がある。各曲へのリンクなども参照。
^ ポーランドのワルシャワに位置する。写真は王宮のオランジュリー。ショパンがよく演奏会を行った。
^ 初夏から初秋にかけて同ショパン像のもとでは、毎週日曜日の午後に無料ピアノリサイタルが開かれ、ショパンの曲目が演奏されている。
^ ポーランド西部、ヴィエルコポルスカ県 アントニン [要曖昧さ回避 ] にある、狩猟用の宮殿・邸宅。ラジヴィウ家 は大貴族(マグナート )であり、その当主のアントニ・ヘンリク・ラジヴィウ に招かれてショパンが頻繁に滞在し演奏会を催した。現在はここでショパン祭りが毎年開催される。
^ このあたりのエピソードに関しては、作り話という指摘もある。
^ コンラッドはショパンの友人のアダム・ミツキエヴィチ の詩に登場するポーランド愛国の英雄。ショパンは後にミツキエヴィチの詩のいくつかに作曲を行う。
^ 「このショパンの志の形になったもの(文章は1871年 にStanisław Tarnowski が最初に出版したもの)は、今日(1937年 現在)ワルシャワのポーランド国立図書館のショパン記念品類の中にある(もともと雑誌は、ショパンの弟子だったMarcelina Czartoryska 王女が保管していたもの)」Zdzisław Jachimecki , "Chopin, Fryderyk Franciszek," Polski słownik biograficzny , vol. III, 1937, p. 422.
^ 1777年 生まれ。ポーランドの砲兵隊大将。1831年 9月6日 にはロシア軍の侵攻からワルシャワを防衛するが、降伏後に銃剣 で殺害されたという。(Józef Sowiński )
^ ショパンの言葉に関する解釈はワルシャワ、Ostrogski Palace のショパン博物館で聞くことができる。
^ a b 1809年 生まれ。ポーランドの画家。11月蜂起 の後は抑圧を逃れてフランスへ移住した。ショパンに関する絵画作品を残している。(Teofil Kwiatkowski )
^ パリサン=ルイ島 の大邸宅であり、ここに集まったポーランドの政治家たちのあだ名ともなった。(Hôtel Lambert 発音: )
^ パリ、チャルトリスキ公 所有のオテル・ランベール[注釈 62] での舞踏会の様子を描いたもの
^ 1831年 から1870年 の間に、ポーランドから国外へ移住した知的階層を指す。これは当時ポーランドがロシア帝国 ・プロイセン王国 ・ハプスブルク君主国 の3国に分割されていたことに起因する。(Great Emigration )
^ ショパンのフランスのパスポート 。Tad Szulc はこう記している。「(略)フランスが彼にパリでの無期限の滞在資格を与えたのは『彼の芸術を完成させるため』である。4年後、フレデリックはフランス国民となり、1835年 8月1日 付けでフランスのパスポートが交付された。彼が国籍を変更することに関して、父を含め誰かに相談したという事実は知られていない。彼が国籍を変更したのは、ロシア大使館に赴いてロシアのパスポートを更新するのを愛国的な理由から避けたいがためだったのか、それとも単に日常の利便性の問題だったのか、定かではない」Tad Szulc Chopin in Paris , p. 69
^ 1905年 生まれ。イギリス の音楽学者。ショパンの伝記を著した。(Arthur Hedley )
^ 彼女は「ショパンがピアノを弾き、喋っている間に彼の頭部をスケッチし、次に彼を肘掛け椅子に座らせて水彩 で肖像を描いた。これは現存する中でドラクロワの作品に次いでよく出来た肖像画である。ショパンはリラックスし、哀愁を帯び、平和そうに見える」Tad Szulc , Chopin in Paris , p. 137. ヴォジンスカの肖像画が正確だったことは、彼女の1830年代 の自画像と後年に撮られた写真 を比べることで想像がつく。
^ 1835年 から1836年 にかけての冬には彼の病状は非常に悪く、ワルシャワではショパンは死んだという噂が囁かれたほどだった
^ 1841年 7月24日 、マリア・ヴォジンスカはショパンの名付け親であるFryderyk Florian Skarbek の息子のJózef Skarbek伯爵と結婚した。2人は7年後に離婚し、マリアは1848年 に1人目の夫の土地の賃借人だったWładysław Orpiszewskiと再婚している。
^ 1820年 頃からのポーランドの知的・芸術的文化の栄えた時期をいう。1864年 の1月蜂起 に伴う抑圧により終了した。(Romanticism in Poland )
^ 1801年 生まれ。ポーランドの詩人。ショパンは彼に『マズルカ Op.41 』を献呈し、また10編の詩に曲をつけている。(Stefan Witwicki )
^ 1785年 生まれ。フランスのピアニスト・作曲家・音楽教師。作曲に関してはシャルル・グノー 、セザール・フランク 、ジョルジュ・ビゼー 、アンブロワーズ・トマ らの師だった。グノーは彼の娘と結婚している。(Pierre-Joseph-Guillaume Zimmermann )
^ 1811年 生まれ。フランスの小説家。1858年 にアカデミー・フランセーズ の会員に選ばれている。(Jules Sandeau )
^ 1813年 生まれ。フランスの小説家・劇作家。リストの未完のオペラ『サルダナパール (英語版 ) 』の台本を書いた。(Félicien Mallefille )
^ マヨルカ島内の村。彼らが泊まった修道院(Valldemossa Charterhouse )は14世紀 (1399年 )の建築。(Valldemossa )
^ カヌ夫妻 Canutである。カヌ夫妻の子孫は、マヨルカ島のショパンの遺産とショパンが使用したファルデモッサの一人部屋の博物館の管理人をしている。
^ フランス中央部、アンドル県 のコミューン 。シャトールー から南東へ約36キロ。(Nohant )
^ 1802年 生まれ。フランスの歌手・台本作家・作曲家。歌手としては特にロッシーニ の作品を得意とした。(Adolphe Nourrit )
^ ショパンは39歳で生涯を閉じたが、その友人のケルビーニは1842年にパリで81歳で亡くなっている 。両者の墓はペール・ラシェーズ墓地 で4メートルの距離に位置している。
^ 当初はジョルジュ・サンドと二人で一枚に書かれた絵だったが、彼らの交際の破局から二枚に分割され、ショパンの部分はルーヴル美術館 に、サンドの部分はオードロップゴー美術館 に所蔵されている。
^ 1800年 生まれ。フランスの画家・リトグラフ 作家。多くの作家・芸術家の肖像画を描いたアシル・ドゥヴェリア )
^ ショパンが幻滅したことに、これによってサンドの急進的・政治的な友人たちが適宜権力を得ていった。Tad Szulc , Chopin in Paris , pp. 366–73.
^ ペイズリー より3マイル 、グラスゴー中心街からは12マイル西に位置し、スコットランドでも最大のコナベーション の一角をなす。(Johnstone )
^ ショパンはこの医師と過ごした数日間を非常に心地よく思っていた。というのも、彼は常にポーランド語 で会話できる人間を探していたが、この時は特に彼は全く英語 が出来なかったということも大きかった。Tad Szulc , Chopin in Paris , p. 382 and passim .
^ ロンドンで数百年にわたり市民ホールと使用されてきた建物。現在はシティ・オブ・ロンドン とその地方公共団体(City of London Corporation )の行政の中心となっている。(Guildhall, London )
^ スターリングの委嘱で描かれた作品。ショパンがベッドで起き上がっており、左からアレクサンダー・イェオヴィツキ、姉のルドヴィカ、チャルトリスカ公爵夫人、ヴォイチェフ・グジマワ、クヴィアトコフスキ本人の姿が描かれている。
^ ショパンの病(英文記事) も参照。
^ 1817年 生まれ。ポーランドの貴族・ピアニスト。チェルニーに学んだあとショパン門下となる。フランツ・リスト 、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド 、アンリ・ヴュータン などとともにヨーロッパを演奏旅行するなど、ピアニストとして成功した。(Marcelina Czartoryska )
^ ワルシャワ大学 のキャンパス正面にあるカトリック教会 で、ワルシャワにおいて名高いバロック様式 の建築。(Holy Cross Church )
^ 1835年 生まれ。ポーランド及びオーストリア=ハンガリー帝国 の彫刻家。(Leonard Marconi )
^ ポーランド、ワルシャワのポヴォンズキ墓地。
^ エウテルペー が壊れた]の上で涙を流す姿がモチーフ。4つ左隣にはケルビーニ が眠る。
^ 1796年 もしくは1798年 生まれ。フランスの歌手。オペラ=コミック座 やパリ国立オペラ などで歌っていた。(Alexis Dupont )
^ 1794年 生まれ。フランスとアイルランド の血を引く歌手。『ドン・ジョヴァンニ 』のレポレッロは適役だった。(Luigi Lablache )
^ 1807年 生まれ。フランスの作曲家。バレエ ・喜劇 ・4曲の交響曲 などを遺している。(Napoléon Henri Reber )
^ ■ショパン博物館の学芸員「死後に写真撮影された記録がない」 ■パリにあるポーランド図書館の写真専門家「写真とデスマスクとは似ておらず、またビソンが自分の名前や日時を写真に添えたことは一度もなく、むしろ偽作と明らかにされている写真に見られるものである」 ■ショパンの研究家「写真はショパンに似ておらず、またショパンの死後三日間遺体に付き添った人々は、数時間を要する撮影に気づきもしなかった」“Chopin experts debate photo's authenticity ”. ワシントン・ポスト (2011年3月10日). 2014年1月6日 閲覧。
^ ヤヌシュ・オストログスキ が1681年 より建築、のちにザモイスキ家 が購入してワルシャワでの下屋敷 として使用し、その後は学生寮、陸軍病院、音楽大学として使われ、第二次世界大戦後にフレデリック・ショパン協会に渡って本部事務局および博物館となった。撮影は2007年 のものだが、その後全面改装し2010年 3月 に再開館している。
^ これとは別に、ポロネーズ変イ長調 《英雄》
作品53が単独でも出版されている。
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書簡訳書
『ショパンの手紙』アーサー・ヘドレイ編、小松雄一郎 訳、白水社 、1965年、新装版1980年、2003年
『ショパン全書簡 1816~1831年 ポーランド時代』岩波書店 、2012年
『ショパン全書簡 1831~1835年 パリ時代 上』岩波書店、2019年10月
『ショパン全書簡 1836~1839年 パリ時代 下』岩波書店、2020年12月
各・ゾフィア・ヘルマン/ズビグニェフ・スコヴロン/ハンナ・ヴルブレフスカ=ストラウス編
各・関口時正 /重川真紀/平岩理恵/西田論子/木原槙子 訳
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関連項目
外部リンク