佐藤 琢磨 | |
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2021年 ロングビーチGPにて | |
基本情報 | |
略称表記 | SAT |
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都新宿区 |
生年月日 | 1977年1月28日(47歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 2002-2008 |
所属チーム |
'02 ジョーダン '03-'05 B・A・R '06-'08 スーパーアグリ |
出走回数 | 92 (90スタート) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 44 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 2002年オーストラリアGP |
最終戦 | 2008年スペインGP |
佐藤琢磨 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
生年月日 | 1977年1月28日(47歳) |
出身地 | 東京都新宿区 |
インディカー・シリーズでの経歴 | |
デビュー | 2010 |
所属 | チップ・ガナッシ・レーシング '23- |
車番 | 11 |
過去所属 |
'10-'11 KVレーシング・テクノロジー '12 レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング '13-'16 A.J.フォイト・エンタープライズ '17 アンドレッティ・オートスポーツ '18-21 レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング '22 デイル・コイン・レーシング with リック・ウェア・レーシング |
出走回数 | 199 |
優勝回数 | 6 |
ポールポジション | 10 |
シリーズ最高順位 | 7位 (2020) |
過去参加シリーズ | |
1999-2001 2000,2001 2000,2001 2002-2008 2010- |
イギリス・フォーミュラ3 マカオグランプリ マスターズ・オブ・フォーミュラ3 フォーミュラ1 インディカー・シリーズ |
選手権タイトル | |
2001 2001 2001 2013 2017 2020 |
イギリス・フォーミュラ3 マスターズ・オブ・フォーミュラ3 マカオグランプリ トヨタグランプリ・オブ・ロングビーチ インディ500 インディ500 |
受賞 | |
2013 2017 2017 2017 2017 2020 2020 |
日本プロスポーツ大賞 特別賞 内閣総理大臣顕彰 日本プロスポーツ大賞 殊勲賞 モータースポーツ顕彰 日本カー・オブ・ザ・イヤー 特別賞 毎日スポーツ人賞 グランプリ スポーツニッポンフォーラム「FOR ALL 2020」グランプリ |
佐藤 琢磨(さとう たくま、1977年1月28日 - )は、日本のレーシングドライバー。東京都出身。
2002年から2008年までF1、2010年からはインディカー・シリーズに参戦。2017年にアジア人(日本人)として初めて最高峰である「インディ500」で優勝し、2020年に2度目の制覇。
身長:164cm、体重:59kg。血液型:RH+ A型。マネジメント契約先はスポーツビズ。
「琢磨」と下の名前で呼ばれる事が多い。英語圏での愛称は“Taku”。早稲田大学人間科学部中退。
2012年より中日本自動車短期大学客員教授を務め、2019年より鈴鹿サーキットレーシングスクールの「SRS-Kart」「SRS-Formula」のPrincipalに就任。
和光学園高等学校卒業後、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科(現・スポーツ科学部)に入学。10歳の時に鈴鹿サーキットで初めてF1を観戦したことからモータースポーツに対して強い憧れを抱きつつも、19歳までは自転車競技に身を投じていた。部の無かった高校に部を立ち上げ、顧問一人部員一人で競技開始。94年、インターハイ優勝。95年、インターカレッジ、2位。同年の国体、6位。96年、全日本学生選手権優勝などの記録を残している。
1996年、ホンダと鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを用いたレーシングスクール、鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)を設立したことを知ると、モータースポーツの世界に飛び込むことを決心。大学を休学して、まずはカートを始め、モータースポーツ歴わずか半年で競争率10倍の難関を突破してSRS-Fへ入学した。他の上位の受講生達と同じく時には講師陣を上回る速さを見せた。1997年首席で卒業。
ノート:佐藤琢磨における合意事項に基づき、運転免許取消に関する記載を行っています。記載に関して意見がある方は記載の除去を強行せず、当該ノートまでお願いいたします。 |
前年のSRS-Fを首席で卒業して獲得したスカラシップにより、1998年は無限×童夢プロジェクトから全日本F3選手権へのデビューを果たすが、2戦に出走した後、シーズン半ばに渡英する。この時期、合わせて中谷明彦が主宰するドライビングアカデミー「中谷塾」も受講し、こちらも首席で卒業している。
ただし渡英当時、琢磨は日本で道路交通法違反による免許取消処分を受けていて、モータースポーツライセンスの前提として有効な運転免許の所持を要求する日本自動車連盟(JAF)管轄下のレースに出走することができなくなっていたとされる。このため、当時の所属チームであった童夢社長の林みのるなど複数の関係者が「琢磨がレース活動を継続するためには海外のレースに活路を求めるしかなかった」と指摘している。
イギリスでは、F1関係者も注目するイギリスF3で失敗すれば二度と取り返すことができないと考え、まずはF3より格下のジュニア・フォーミュラであるフォーミュラ・ボクスホールJr.にダイヤモンド・レーシングより参戦し、その後に満を持してカーリン・モータースポーツより2000年と2001年にイギリスF3選手権にフル参戦。
2000年前半はミスやクラッシュが目立っていた。また、チームのミスもあり冴えない結果に。しかし、スタートとタイヤが冷えた状態やウェットコンディションでのドライビングは他のドライバーを圧倒する場面も見られた(2000年マカオGP初日ウエット状態でのフリー走行で2位以下を2秒引き離してのトップタイムをマークした。予選2位、決勝リタイア)。2000年の後半は2000年王者であるアントニオ・ピッツォニアをも引き離し、2000年度イギリスF3においてシリーズ3位でシーズンを終えた。また、イギリスの週刊誌オートスポーツで2000年度最速ドライバーとして評価されるなどして、2001年イギリスF3チャンピオン最有力候補とされた。
2001年には前評判通り日本人初のイギリスF3チャンピオンを獲得し、国際F3レース(マールボロマスターズ、マカオGP)も制してF3ドライバーとして世界の頂点を極めた。
また英オートスポーツでF3、2シーズンでイギリスF3+国際F3+スポット参戦フランスF3の通算19勝を挙げて、F3史上最も成功したドライバーとして紹介された。
2001年10月に、ホンダエンジンを搭載するジョーダンのレギュラードライバーとして2002年シーズンのF1に参戦することが決定し、史上7人目の日本人フルタイムF1ドライバーとなった。初めてレーシングカートに乗ってから僅か5年でF1のシートを獲得するのは奇跡に近い快挙であると言われた。しかし、この年のジョーダンチームは前年に多くの主要なエンジニアが流出したうえ、2001年シーズンまでのメインスポンサーであったベンソン&ベッジスが支援を縮小したことなどから資金不足に陥った。シーズン中のテストもままならない状況で、入賞は日本GPでの決勝5位・2ポイントのみに留まったものが予選・決勝共にチームメイトのジャンカルロ・フィジケラに引けを取らないパフォーマンスを見せ、翌2003年はジョーダンで2年目を迎える予定だったが、ホンダがエンジン供給先をB・A・Rに絞りジョーダンから引き上げたため、事実上解雇される。それに伴い、B・A・Rのテストドライバーとして移籍する事になる。
2003年シーズンは、翌2004年以降のレギュラードライバー昇格のオプション付でリザーブ兼テストドライバーとしてB・A・Rに移籍。リザーブドライバーとしてレースに全戦帯同し、レースの合間にテスト走行をこなすこととなった。最終戦日本GPでは、翌年のシートを失うことが確実になっていたレギュラー・ドライバーのジャック・ヴィルヌーヴがモチベーションを失って急遽参戦を取り止めたために代役で出走。約1年ぶりの実戦となったが、6位入賞を果たす。この入賞で獲得した3ポイントによってB・A・Rはコンストラクターズランキングでザウバーを逆転した。また、この年にはF1以外の活動として、自転車選手だった経歴を活かして「ツール・ド・フランス」の一般参加部門である「エタップ・ド・ツール」にもゲストとして出場している(アキレス腱痛により途中リタイア)。
2004年シーズンはB・A・Rのレギュラードライバーに昇格。この年のマシン「B・A・R 006」が速さを見せ、各レースで上位争いに加わっていく。
このシーズンは、スペインGP、アメリカGP、ハンガリーGPにおいて予選3位を記録するなど速さを見せ付ける。しかし、前半戦においては、マシントラブルなどでリタイヤしたレースがいくらかあり、ポイント獲得の機会を失う場合もあった。
しかしその状況でもヨーロッパGPで日本人初のセッションリーダー(予選1回目)、フロントロー獲得、ラップリーダーを記録。さらにアメリカGPで日本人最高位タイの3位フィニッシュを果たした。
この年のB・A・Rは、チームメイトのジェンソン・バトンが2位表彰台を4回、3位表彰台を6回獲得するなど、非常に力強い戦闘力を保持し、フェラーリに次ぐコンストラクター2位を獲得した。
この年にイギリスからモナコに移住した。
2005年シーズンは前年とは打って変わって苦難の連続であった。開幕のオーストラリアGPでは最後尾スタートから決勝14位に留まり、巻き返しを期したマレーシアGPではウイルス性の発熱により欠場の憂き目にあった。第4戦サンマリノGPでは5位入賞でシーズン初ポイントを獲得したはずがマシンの重量不足でレギュレーション違反の裁定を下されリザルトを取り消された。加えてB・A・RはスペインGP、モナコGPの2レースの出場停止処分を科されたため、ほとんどまともにレースができないままシーズン序盤を浪費してしまった。後半に入るとバトンが復調していくのに対して琢磨の調子は戻らず、最終的にドライバーズポイントはハンガリーGPでの8位入賞による1ポイントのみと、デビュー以来最低の成績に沈んだ。
2005年は琢磨はもとより、B・A・Rというチーム全体が混乱したシーズンとも言えたが、サーキット以外の部分でもそれは収まらず、琢磨自身もそれに巻き込まれていった。ウィリアムズに移籍するはずだったバトンが突如残留。もうひとつのシートについても、ルーベンス・バリチェロのフェラーリからの移籍が決定していたことから、2006年シーズンのB・A・Rでのレギュラードライバーの座を失うことになる。
B・A・Rを離脱した2006年シーズンは複数チームからのオファーを受け、一時はウィリアムズと契約間近にあったが、ウィリアムズが2007年よりトヨタエンジン供給を受け、ホンダドライバーである琢磨との契約がネックとなり交渉は破断となったが、元F1ドライバーの鈴木亜久里がオーナーを務め、ホンダがエンジンを供給する新規参戦チーム スーパーアグリF1チームから参戦することとなった。
新規参入チームのうえ、前半戦はホンダエンジンこそ搭載しているものの基本的には4年落ちのアロウズのシャシーを現行レギュレーションに合致するように改良した「SA05」を使用していたために、チームメイトの井出有治と共に後方集団からも大きく離されて最下位を走ることが殆どだった。
ニューマシンのSA06を導入した当初も他チームからは離されていたが、マシンの熟成が進むと戦えるようになり日本GPではMF1レーシングの前でチェッカーを受けた。さらに最終戦ブラジルGPでは、チーム最高位の10位という結果を出すと共にチームメイトの山本左近とのダブル完走を果たした。
2007年シーズンも同チームからファーストドライバーとしてエントリーし、イギリスF3時代のチームメイトであるアンソニー・デビッドソンとともに新型マシンの「SA07」をドライブする。
新型マシンであるSA07の戦闘力はSA06とは比較にならないほど高く、オーストラリアGPの予選ではチーム創設後初のQ3進出を果たし、予選10位を記録した(デビッドソンは11位)。その後のレースでもワークスホンダと同等以上の成績を収めており、第4戦スペインGPでは、終盤に給油システムの不具合で緊急ピットインし順位を落としたフィジケラを振り切り8位でチェッカーを受け、チームに初ポイントをもたらした。また、これは完全日本製パッケージ(日本のコンストラクター・日本人ドライバー・日本製エンジン・日本製タイヤ)で記録した、初のチャンピオンシップ・ポイントであった。第6戦カナダGPでは、荒れたレース展開の中でまずラルフ・シューマッハを、さらにタイヤを傷めてペースの上がらないフェルナンド・アロンソもオーバーテイクし6位でフィニッシュした。
シーズン後半はチームの資金不足で開発が進まずSA07はライバルとの競争から後れ始め、ポイントは取れないものの第11戦ハンガリーGP〜第17戦ブラジルGPまで7戦連続の完走を果す。
2008年に入るとスーパーアグリF1チームの資金難が深刻化。ホンダが発表した参戦リストにチーム及び琢磨の名前がなく、2008年シーズンに参戦できない状況に陥ったが、開幕直前の3月10日に当座の資金の目処を付けて参戦を表明し、ファーストドライバーとしてエントリーした。しかし資金難によりマシン開発がほとんどできておらず、前年後半のような戦闘力の劣るマシンでのレースを余儀なくされた。開幕戦オーストラリアGPでは予選でQ2進出もできず、決勝もトラブルでリタイアした。だが、次戦のマレーシアGPからは予選のパフォーマンスは優れないものの、決勝では完走した。
5月6日、スーパーアグリF1チームがF1からの撤退を表明したため所属チームを失った。その後、ル・マン24時間レースやALMS、インディなどからオファーを受けるも全て断り、あくまでF1レギュラーシートを獲得する方向で交渉を進めていた。当時の琢磨自身もF1を引退する考えはまったくないことを表明していた。イギリスの月刊誌F1 Racingが行った歴代ドライバー100傑では、唯一の日本人ドライバーとして78位と評価された。
8月26日、来季F1復帰を目指しスクーデリア・トロ・ロッソとの交渉に入ったことが発表された。その後琢磨とセバスチャン・ブエミが9月17日からスペイン・ヘレスにて行なわれたテストに参加し、来期のレギュラードライバーとしてのテストを行った。シーズン終了後の11月17日及び18日の午前中にも再びテストに参加し、初日は全体トップ、2日目も午前中限定では全体トップのタイムを記録した(2日目全体のトップタイムは午後にレッドブルから出走したセバスチャン・ベッテルに更新された)。12月10日、11日にもヘレスで行われたテストに参加し、2日ともセバスチャン・ブエミに次ぐ2番手タイムをマークした。
2月6日、2008年の3回のテストの後、レギュラードライバー決定を待っていた琢磨だったが、トロ・ロッソは2009年のドライバーラインナップをセバスチャン・ブエミとセバスチャン・ボーデの2人に決定した。
2009年7月3日にイギリスのボーリューにある国立自動車博物館で2004年に琢磨がドライブしたB・A・R 006が披露された。これは、第9戦アメリカグランプリにおいて自身初めての表彰台を獲得した時のマシンであり、新たに博物館の収蔵品に加えられることが決定したことによる。この披露会には琢磨自身も参加した。
オフシーズンにおいては、2010年より参戦する新規チームであるロータスF1チーム、及びグラビティによる買収で新体制となるルノーF1との交渉が行われていたが、これも実現することは無かった。
2008年のスペインGPが、F1における琢磨最後のレースとなった。
2月18日、東京でKVレーシングよりインディカー・シリーズに参戦することを発表した。また、F1復帰交渉に関して、ルノー、スクーデリア・トロ・ロッソ、ロータス、ステファンGPと交渉を行ったことも明らかにした。
2月24,25日にはバーバー・モータースポーツ・パークで合同テストが行われた。インディでの実質初テストにもかかわらず、11チーム21人の内、24日は7位、25日は6位でテストを終えた。
シリーズが始まると、9月19日にツインリンクもてぎで行われた第16戦インディジャパン300で、オーバルコースにおける自身最高順位である12位で完走した。
この年は予選では何度か上位につけたが、全17戦中8戦しか完走できなかったことなどもありランキング21位(最高位9位)でシーズンを終えた。
10月10日に行われたF12010年日本グランプリにおいてロータス・78のデモ走行をした。
2010年と同じく、KVレーシングからインディカー・シリーズに参戦することを2月4日に発表した。
3月27日に、セントピーターズバーグで開幕戦が行われたが、そこで自己ベストとなる5位入賞を果たした。第4戦サンパウロでは予選10番手からスタートし、雨の中で他者のクラッシュやマシントラブルなどで3位まで順位を上げたが、14周で日曜日のレースは赤旗中断となり月曜日に延期に。翌日再開されたレースではスタート直後に雨が降りだす展開の中で前を行く2台を交わしてトップに浮上し自身初のリードラップを記録、23周に渡ってトップを走行した。しかし、34周目からのフルコースコーションでチームはピットしない作戦を選択。レース中にフルコースコーションがあと一度でも出されれば給油なしで走りきれるという判断だったが、チームの思惑に反してその後フルコースコーションは出されず、給油のためにピットして順位を下げたことなどもあり最終的には8位でゴールした。
開幕4戦のロードやストリートでのレースが終わり、シリーズがオーバルのレースになっても前年を上回るパフォーマンスを見せ続けた。第5戦インディ500では予選でチーム最上位の10位獲得も決勝では序盤でクラッシュによりリタイア。第6戦テキサスでは第1レースでオーバル自己最高の5位に入り、第7戦ミルウォーキーでも8位に入る。第8戦アイオワの決勝では終盤にアウトラップでバンプに乗り上げるミスをし、リタイアを喫して19位に終わったがインディカー・シリーズで日本人初となるポールポジションを獲得している。屈指の難易度を誇る第11戦ミッドオハイオにて4位フィニッシュ。ベストリザルトを更新した。
しかしそれ以降は下位に沈むレースが増え、シングルフィニッシュも第12戦ニューハンプシャーの7位のみとなる。総合ランキングはチームメイトのトニー・カナーンの5位に対し、13位に留まった。
2月3日、この年よりインディカー・シリーズフル参戦を表明するレイホール・レターマン・ラニガン・レーシング(RLR)に移籍することが発表された。 開幕戦セントピーターズバーグでは一時ラップリーダーになるも電気系トラブルでリタイアに終わる。第3戦ロングビーチでは3位でファイナルラップに入るもライアン・ハンター=レイと接触しスピン、シーズンで初めて完走出来たものの8位に留まった。第4戦ブラジルのサンパウロではエンジン・トラブルのため前日の予選に出走できず、最後尾から一つ前の25位からのスタートとなるも、巧みなピット戦略も駆使した驚異的な追い上げで自己最高の3位となり初の表彰台に上がる。
自身3度目のインディ500では、19番手スタートからポジションを上げ119周目にラップリーダーに立つ。その後31周をリードしつつトップ集団に留まる走りを見せる。199周目にはスコット・ディクソンを抜いて2位に上がる。そのまま先頭のダリオ・フランキッティの真後ろ(2位)でファイナルラップに入り、ターン1にフランキッティと並び進入した。しかしフランキッティが残したスペースは狭く、インの白線を踏まされバランスを失いスピンしたマシンはウォールに接触、日本人初優勝はならなかったが自己ベストの17位でレースを終えた。
続く第6戦デトロイトでは縁石で弾んだマシンがコントロールを失いウォールに追突、第7戦テキサスはターン3でアンダーステアが出てウォールに接触、第8戦ミルウォーキーは周回遅れのジェームズ・ジェイクスにラインを開けてもらえず接触、3戦連続でリタイアに終わった。第10戦アイオワではマシンのセッティングが決まらず、この年試験導入された予選レースでも奮わず24番手スタートとなった。決勝では序盤に追い上げるが上位陣には遅れを取り、完走は出来たものの3周遅れの12位でフィニッシュした。
第11戦トロントでは11番手スタートから一時5位まで浮上する。しかし終盤ブレーキにトラブルが発生、マシンは持ちこたえたが最終順位を9位まで落とすことになった。第12戦エドモントンではシーズン最高の予選4番手、3番手スタートを獲得、決勝でも上位を維持し53周目に2位までポジションを上げた。その後リーダーのエリオ・カストロネベスを追走するがプッシュ・トゥ・パスの残量で勝るカストロネベスを相手にオーバーテイクには至らず0.8763秒差の2位でフィニッシュ。自己ベストを更新し、武藤英紀と並ぶ日本人ドライバー最高位タイを記録した。年間ランキングは14位(全戦参戦17名)。
また、インディカーとスケジュールが重ならない日程で、日本国内のレースにスポット参戦した。フォーミュラ・ニッポンにはチーム無限より3戦に出場。FIA 世界耐久選手権の第7戦富士6時間にはLMP1クラスのOAKペスカローロより参戦した。
1月10日、A.J.フォイト・エンタープライズとの契約が発表される(A.J.フォイトは前年のインディ500でのファイナルラップでのチャレンジを見て獲得を決めたという)。序盤2戦はマシントラブルやドリンクシステムのトラブルでピットでの給水を余儀なくされたことなどが響きそれぞれ8位、14位に終わる。
第3戦ロングビーチでは4番手グリッドであったが、決勝直前の最終プラクティスでトップタイムを記録すると、スタートでまずウィル・パワーを抜いて3番手に上がり、23周目には前年のこのレースで佐藤に接触した因縁を持つライアン・ハンター=レイを抜き去り2位、その後のピットでダリオ・フランキッティを抜いてトップに立つ。その後は一度もトップを譲ることなく圧倒的な速さを見せつけ、インディカー・シリーズ(CART、チャンプカーを含む)の歴史において、また、スーパーフォーミュラ(フォーミュラ・ニッポン以前を含む)を除くトップフォーミュラの歴史において日本人として初めての優勝を飾った。続く第4戦サンパウロでも、残り1周の時点までトップを快走したが、最終ラップでジェームズ・ヒンチクリフに逆転を許し、2位に終わる。それでもこの2位入賞により、佐藤は総合順位首位に浮上した。
しかし第5戦のインディ500では、前年のような見せ場も無く決勝13位に終わった。続く第6戦以降においては、第9戦ミルウォーキーでの決勝7位が唯一の決勝一桁順位となり、それ以外のレースでは自身のミスやマシントラブルで尽く決勝下位に沈んだ。特に10月6日の第18戦(ヒューストン)においては、最終周でデブリを拾ってコントロールを乱し、ダリオ・フランキッティ、E.J.ヴィソとの接触事故を起こす。特にフランキッティの車体は宙に舞いフェンスに激突、脊柱と右足首を骨折する大けがとなり、飛び散った破片で観客14人が負傷するなど、大きなクラッシュとなった。フランキッティの怪我は競技に戻れるまでには治癒せず、このレースをもって引退することとなった。
結局のところ、琢磨は初優勝を飾ったシーズンであったにもかかわらず、第4戦の総合順位首位から最終戦の総合17位(全戦参戦21名)にまで転落し、昨年・一昨年にも及ばない総合順位で終了してしまった。
同年11月には、翌年より本格的なシリーズ展開が予定されているフォーミュラEのワンメイクマシンである「SRT_01E」の開発ドライバーに起用されることが発表された。
2014年シーズンもAJフォイト・レーシングで参戦した。開幕戦のセントピーターズバーグではポールポジションを獲得し(決勝は7位)、幸先の良い出だしとなったかに見えた。
しかしこれ以降は、第7戦のデトロイト・レース2でポールを再び獲得したことを除くと、第13戦までの決勝最高位が9位(第4戦インディアナポリス)という不振に陥ってしまう。完走すらままならず、第8戦から第13戦まで6戦連続リタイアも喫している。第14戦トロント・レース2でようやく決勝5位に入り、終盤2戦(第17・18戦)では決勝4位、6位となっている。しかし、総合順位を挽回するには時すでに遅く、前年を更に下回る総合18位(全戦参戦21名)に終わった。
9月に北京で行われたフォーミュラEの開幕戦に鈴木亜久里率いるアムリン・アグリ・フォーミュラEチームよりスポット参戦をした。
AJフォイト・レーシングで3年目のシーズンを戦った。決勝最高位は2位、総合14位(全戦参戦18名)
AJフォイト・レーシングで4年目のシーズンを迎える。これは、オーナーのAJフォイトを除くドライバーではチーム最長である。 シーズン終了後、チームがシボレーに移籍、チームも琢磨を残留させる意向であったがホンダとの契約もありチームを離脱、アンドレッティ・オートスポーツに移籍した。
5月28日、自身8度目となるインディ500では、予選で日本人過去最高の4位に付けた。決勝ではスタートに出遅れたものの65周目にトップに出る。その後ピットミスで10位まで下げるが徐々に順位を上げていき、196周目にエリオ・カストロネベスをかわしてトップに出るとそのままチェッカーフラッグを受け、日本人初のインディ500優勝を達成した(アジア人としても初)。
インディカー・シリーズ参戦124戦目の快挙は、自身のオーバルトラック初勝利でもある。この快挙にチームオーナーであるマイケル・アンドレッティやこの年インディ500にスポット参戦したチームメイトのフェルナンド・アロンソ、更に前年まで所属したA.J.フォイト・エンタープライズのクルー達(ビクトリーレーンに向かうピットレーン上で、ここのクルー達とハイタッチをかわしている)やA.J.フォイトからも祝福を受け、日本国内でも道頓堀グリコサインが優勝を祝うサインを表示するなど琢磨の優勝を祝福した。
日本国政府も「日頃のたゆみない精進によって、モータースポーツにおいて数々の記録を打ち立て、極めて優れた業績を挙げた」として、8月4日付で内閣総理大臣顕彰を授与した。その後もシングルフィニッシュを記録し、シリーズチャンピオンも期待されたが、後半戦以降は精彩を欠いた。それでも自身最高の総合8位を記録している。
2017年9月20日、アンドレッティがシボレー移籍を匂わせたこともあり、2018年シーズンをRLRに移籍して戦うことを発表。RLRには2012年以来6年ぶりの復帰となる。
開幕前にISMレースウェイで行われた合同テストでは、チームメートのグラハム・レイホールと共に全セッションで最速タイムを独占した。
シーズン開幕戦となるセントピーターズバーグではファスト6に残り予選6位を獲得するが、レースでは中盤にスコット・ディクソンと接触し後退、12位フィニッシュとなった。その後もシーズンを通して戦略面や接触により後退するレースが度々あり、連覇を狙ったインディ500でも序盤に周回遅れのジェームス・ディヴィソンと接触しリタイア、総合32位となった。
第11戦アイオワでは5位走行中の292周目に前方でスピンしたエド・カーペンターと接触。琢磨にダメージはなかったものの、カーペンターの部品が散乱しイエローコーションが提示される。この時点で琢磨より上位にいたジョセフ・ニューガーデン、ロバート・ウィッケンスは再スタートを予測しピットイン。しかし再スタートはなくイエローチェッカーとなり、順位が繰り上がったことで琢磨が3位表彰台を獲得した。
第16戦ポートランドでは予選20番手となるも、スタート直後のイエローコーション中にピットで燃料を継ぎ足し、その後のピットストップを他車より1回減らす作戦を採る。これが見事に功を奏し、自身3度目、ロードコースでは初の優勝を果たした。
9月16日、シーズン最終戦終了直後に、インディカー参戦10年目となる翌年のこのチームへの残留が発表された。
レイホール移籍2シーズン目(チーム在籍通算3シーズン目)のシーズン。
第3戦のバーバーでレイホール復帰後初、通算8度目のポール・ポジションからスタート、ピットタイミングによる順位変動以外は先頭を走り続け、通算4勝目を自身初のポール・トゥ・ウインで飾った。
インディ500でも一度は周回遅れになりながらも挽回し3位になるなど、ランキングも上位に位置し中盤戦を迎えたが、中盤戦はテキサスでポールポジションを獲得した以外は目立ったリザルトを残せずにタイトル争いからは後退。
そして、第14戦のポコノではスタート直後にアレクサンダー・ロッシと接触。その後、5台を巻き込む多重クラッシュとなった。TV解説を含め、このアクシデントについて他のドライバーたちや元ドライバーからも琢磨の非を問う声が多く上がり、SNSでも琢磨を糾弾する声が上がった。しかし、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングは琢磨のオンボード映像をインディカーに提出し潔白が証明される。琢磨を批判した人たちも次々と批判発言を撤回した。
苦境を乗り越えて迎えた続く第15戦のゲートウェイでは、スタートで出遅れその後に周回遅れにもなるものの、ピットタイミングとイエローコーションのタイミングで幸運に恵まれ、残り43周の再スタートをトップで迎える。そのままトップを維持したファイナルラップではエド・カーペンターと0.0399秒差の大接戦を制し、通算5勝目を初のシーズン複数勝利で飾った。また、この勝利によりロード・ストリート・オーバル・ショートオーバルというインディカーで開催される4つのコースタイプ全てで勝利を挙げたドライバーとなった。
ポイントが2倍となる最終戦ラグナ・セカで21位完走に終わり、2017年のランキング最上位更新はならず、9位でシーズンを終了した。
引き続きレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングより参戦。
COVID-19による影響でシーズン開幕が6月に延期される。その間にインディカー公式が呼びかけiRacingを用いて開催された「インディカー・iRacingチャレンジ」に第4戦もてぎより参戦。GAORA SPORTSでその模様が中継され、自宅にシミュレーターを設置し参戦する様子が放映された。
無観客で行われた開幕戦テキサスはワンデーイベントとなった。練習走行では6位を記録するも、予選ではアウトラップのターン1でNASCAR用に塗布されたPJ1 TrackBite上を走行し、グリップを失いスピン。外側ウォールにクラッシュしてしまう。チームはバックアップカーのセッティングを懸命に行うも、決勝前の車検時間に間に合わず決勝の出走を断念し、琢磨自身インディカー初の決勝DNSとなった。
8月16日、第7戦インディ500の予選で日本人過去最高の3位、初のフロントロースタートとなった。8月23日の決勝では堅実な走りを見せ、185周目にメインストレートでスコット・ディクソンをパスしてトップに立った。残り5周となったところでチームメイトのスペンサー・ピゴットがクラッシュし、イエローコーションのままチェッカーフラッグが振られた。自身2度目のインディ500優勝、所属チームを16年ぶりの制覇に導いた。
レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングより参戦。連続4年目(通算5年目)の同チームからの参戦となった。この年は1ケタ順位での完走こそ多かったものの、最高位はデトロイトレース1の4位にとどまり、ランキングは11位。このシーズン限りでチームを離脱した。
2022年はデイル・コイン・レーシング(リック・ウェア・レーシングとの共同チーム)へ移籍、フル参戦する。17レース中トップ10以内での完走が4レースのみ、最高位はゲートウェイでの5位でランキング19位に終わり、この年のみでチームを離脱した。
2023年1月17日、インディカーにおける名門中の名門とも言えるチップ・ガナッシ・レーシングへ移籍、インディ500を含めたオーバル全5戦のみながら参戦が発表された。
2024年3月19日、LONG BEACH MOTORSPORTS WALK OF FAMEに顕彰される。
かつてF1でもタッグを組んでいた鈴木亜久里のチーム、アムリン・アグリからフォーミュラEの初戦にスポット参戦する。結果はリタイアに終わったが、ファステストラップを獲得、2ポイントを得る。 フォーミュラEでの最初のファステストラップ獲得者となった。
年 | シリーズ | チーム | レース | PP | 勝利 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | 全日本F3選手権 | 童夢プロジェクト | 1 | 0 | 0 | 0 | NC |
1999 | イギリス・フォーミュラ3 - ナショナル・クラス | ダイヤモンド・レーシング | 7 | 0 | 0 | 103 | 4位 |
ヨーロッパ・カップ・ブリテン | ? | ? | ? | 48 | 2位 | ||
フォーミュラ・オペル・ヨーロピアン・ユニオン・シリーズ | ? | ? | 1 | 115 | 6位 | ||
2000 | イギリス・フォーミュラ3 | カーリン・モータースポーツ | 12 | 6 | 4 | 129 | 3位 |
ヨーロピアン・フォーミュラ3・カップ | 1 | 0 | 0 | N/A | NC | ||
マカオグランプリ | 1 | 0 | 0 | N/A | 14位 | ||
マスターズ・オブ・フォーミュラ3 | 1 | 0 | 0 | N/A | 28位 | ||
コリア・スーパープリ | 1 | 0 | 0 | N/A | 8位 | ||
2001 | イギリス・フォーミュラ3 | 25 | 6 | 12 | 345 | 1位 | |
ヨーロピアン・フォーミュラ3・カップ | 1 | 0 | 0 | N/A | NC | ||
マカオグランプリ | 1 | 0 | 1 | N/A | 1位 | ||
マスターズ・オブ・フォーミュラ3 | 1 | 0 | 1 | N/A | 1位 | ||
フォーミュラ1 | ラッキーストライク・BAR・ホンダ | テストドライバー | |||||
2002 | DHL・ジョーダン・ホンダ | 17 | 0 | 0 | 2 | 15位 | |
2003 | ラッキーストライク・BAR・ホンダ | 1 | 0 | 0 | 3 | 18位 | |
2004 | 18 | 0 | 0 | 34 | 8位 | ||
2005 | 16 | 0 | 0 | 1 | 23位 | ||
2006 | スーパーアグリF1チーム | 18 | 0 | 0 | 0 | 23位 | |
2007 | 17 | 0 | 0 | 4 | 17位 | ||
2008 | 4 | 0 | 0 | 0 | 21位 | ||
2010 | インディカー・シリーズ | KVレーシング・テクノロジー | 17 | 0 | 0 | 214 | 21位 |
2011 | KVレーシング・テクノロジー - ロータス | 17 | 2 | 0 | 282 | 13位 | |
2012 | レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング | 15 | 0 | 0 | 281 | 14位 | |
2013 | A.J.フォイト・エンタープライズ | 19 | 2 | 1 | 322 | 17位 | |
2014 | 18 | 2 | 0 | 350 | 18位 | ||
2014-15 | フォーミュラE | アムリン・アグリ | 1 | 0 | 0 | 2 | 24位 |
2015 | インディカー・シリーズ | A.J.フォイト・エンタープライズ | 16 | 0 | 0 | 323 | 14位 |
2016 | 16 | 0 | 0 | 320 | 17位 | ||
2017 | アンドレッティ・オートスポーツ | 17 | 2 | 1 | 441 | 8位 | |
2018 | レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング | 17 | 1 | 0 | 351 | 12位 | |
2019 | 17 | 2 | 2 | 415 | 9位 | ||
2020 | 14 | 1 | 1 | 348 | 7位 | ||
2021 | 16 | 0 | 0 | 324 | 11位 | ||
2022 | デイル・コイン・レーシング ウィズ リック・ウェアー・レーシング | 0 | 0 | 0 | 0* | NC* |
年 | チーム | エンジン | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999年 | ダイヤモンド・レーシング | 無限 | B | DON 1 |
SIL 1 |
THR |
BRH 1 |
BRH 2 |
OUL 1 |
CRO 1 |
BRH 1 |
SIL 1 16 |
SNE 1 10 |
PEM 1 14 |
PEM 2 Ret |
DON 1 |
SPA 1 18 |
SIL 1 8 |
THR 1 11 |
4位 | 103 | ||||||||||
2000年 | カーリン・モータースポーツ | C | THR 1 Ret |
CRO 1 5 |
OUL 1 Ret |
DON 1 Ret |
DON 2 9 |
SIL 1 1 |
BRH 1 2 |
DON 1 3 |
DON 2 9 |
CRO 1 1 |
SIL 1 1 |
SNE 1 6 |
SPA 1 21 |
SIL 1 1 |
3位 | 129 | |||||||||||||
2001年 | C | SIL 1 12 |
SIL 2 4 |
DON 1 Ret |
DON 2 2 |
SNE 1 1 |
SNE 2 Ret |
OUL 1 1 |
OUL 2 1 |
CRO 1 DSQ |
CRO 2 1 |
ROC 1 1 |
ROC 2 1 |
CAS 1 2 |
CAS 2 2 |
BRH 1 9 |
BRH 2 1 |
DON 1 12 |
DON 2 1 |
KNO 1 1 |
KNO 2 1 |
THR 1 2 |
THR 2 8 |
BRH 1 2 |
BRH 2 1 |
SIL 1 18 |
SIL 2 1 |
1位 | 345 |
年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002年 | ジョーダン | EJ12 | ホンダ RA002E 3.0 V10 | AUS Ret |
MAL 9 |
BRA 9 |
SMR Ret |
ESP Ret |
AUT Ret |
MON Ret |
CAN 10 |
EUR 16 |
GBR Ret |
FRA Ret |
GER 8 |
HUN 10 |
BEL 11 |
ITA 12 |
USA 11 |
JPN 5 |
15位 | 2 | ||
2003年 | B・A・R | 005 | ホンダ RA003E 3.0 V10 | AUS | MAL | BRA | SMR | ESP | AUT | MON | CAN | EUR | FRA | GBR | GER | HUN | ITA | USA | JPN 6 |
18位 | 3 | |||
2004年 | 006 | ホンダ RA004E 3.0 V10 | AUS 9 |
MAL 15† |
BHR 5 |
SMR 16† |
ESP 5 |
MON Ret |
EUR Ret |
CAN Ret |
USA 3 |
FRA Ret |
GBR 11 |
GER 8 |
HUN 6 |
BEL Ret |
ITA 4 |
CHN 6 |
JPN 4 |
BRA 6 |
8位 | 34 | ||
2005年 | 007 | ホンダ RA005E 3.0 V10 | AUS 14 |
MAL PO |
BHR Ret |
SMR DSQ |
ESP | MON | EUR 12 |
CAN Ret |
USA DNS |
FRA 11 |
GBR 16 |
GER 12 |
HUN 8 |
TUR 9 |
ITA 16 |
BEL Ret |
BRA 10 |
JPN DSQ |
CHN Ret |
23位 | 1 | |
2006年 | スーパーアグリ | SA05 | ホンダ RA806E 2.4 V8 | BHR 18 |
MAL 14 |
AUS 12 |
SMR Ret |
EUR Ret |
ESP 17 |
MON Ret |
GBR 17 |
CAN 15† |
USA Ret |
FRA Ret |
23位 | 0 | ||||||||
SA06 | GER Ret |
HUN 13 |
TUR NC |
ITA 16 |
CHN DSQ |
JPN 15 |
BRA 10 |
|||||||||||||||||
2007年 | SA07 | ホンダ RA807E 2.4 V8 | AUS 12 |
MAL 13 |
BHR Ret |
ESP 8 |
MON 17 |
CAN 6 |
USA Ret |
FRA 16 |
GBR 14 |
EUR Ret |
HUN 15 |
TUR 18 |
ITA 16 |
BEL 15 |
JPN 15† |
CHN 14 |
BRA 12 |
17位 | 4 | |||
2008年 | SA08 | ホンダ RA808E 2.4 V8 | AUS Ret |
MAL 16 |
BHR 17 |
ESP 13 |
TUR | MON | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | EUR | BEL | ITA | SIN | CHN | JPN | BRA | 21位 | 0 |
(key)
参戦年数 | チーム | レース | PP | 勝利 | トップ5 | トップ10 | インディ500優勝回数 | チャンピオンシップ |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
12 | 4 | 199 | 10 | 6 | 23 | 55 | 2 | 0 |
年 | シャシー | エンジン | スタート | フィニッシュ | チーム |
---|---|---|---|---|---|
2010年 | ダラーラ | ホンダ | 31 | 20 | KVレーシング・テクノロジー |
2011年 | 10 | 33 | KVレーシング・テクノロジー - ロータス | ||
2012年 | 19 | 17 | レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング | ||
2013年 | 18 | 13 | A.J.フォイト・エンタープライズ | ||
2014年 | 23 | 19 | |||
2015年 | 24 | 13 | |||
2016年 | 12 | 26 | |||
2017年 | 4 | 1 | アンドレッティ・オートスポーツ | ||
2018年 | 16 | 32 | レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング | ||
2019年 | 14 | 3 | |||
2020年 | 3 | 1 | |||
2021年 | 15 | 14 | |||
2022年 | 10 | 25 | デイル・コイン・レーシング ウィズ リック・ウェアー・レーシング | ||
2023年 | 8 | 7 | チップ・ガナッシ・レーシング |
年 | エントラント | クラス | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | ランク | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2012年 | OAKレーシング | LMP1 | OAK ペスカロロ・01 | ホンダ LM-V8 3.4 L V8 | SEB | SPA | LMS | SIL | SÃO | BHR | FUJ 16 |
SHA 14 |
80位 | 1 |
(key)
年 | エントラント | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | DC | ポイント | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2012年 | TEAM 無限 | SUZ | TRM | AUT | FSW | TRM | SUG 9 |
SUZ 17 |
SUZ 10 |
15位 | 0 |
2013年 | SUZ 15 |
AUT | FSW | TRM | SUG 11 |
SUZ 9 |
SUZ 8 |
18位 | 0.5 |
(key)
年 | チーム | 車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2014-15年 | アムリン・アグリ | スパーク-ルノー・SRT 01E | BEI Ret |
PUT | PDE | BNA | MIA | LBH | MON | BER | MOS | LON | LON | 24位 | 2 |
タイトル | ||
---|---|---|
先代 アントニオ・ピッツォニア |
イギリスF3 2001年 |
次代 ロビー・カー |
先代 アンドレ・クート |
マカオグランプリ優勝者 2001年 |
次代 トリスチャン・ゴメンディ |
先代 アレクサンダー・ロッシ |
インディ500勝者 2017 |
次代 ウィル・パワー |
先代 サイモン・パジェノ |
インディ500勝者 2020 |
次代 エリオ・カストロネベス |
アンドレッティ・オートスポーツ | チップ・ガナッシ・レーシング | チーム・ペンスキー | エド・カーペンター・レーシング | ||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
26 | コルトン・ハータ | 28 | ロマン・グロージャン | 8 | マーカス・エリクソン | 10 | アレックス・パロウ | 2 | ジョセフ・ニューガーデン | 12 | ウィル・パワー | 20 | コナー・デイリー | ||
27 | カイル・カークウッド | 29 | デブリン・デフランチェスコ | 9 | スコット・ディクソン | 11 | マーカス・アームストロング 佐藤琢磨 |
3 | スコット・マクラフリン | 21 | リヌス・ヴィーケイ | ||||
デイル・コイン・レーシング | A.J.フォイト・エンタープライズ | レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング | アロー・マクラーレン | メイヤー・シャンク・レーシング | |||||||||||
18 | デイビッド・マルカス | 14 | サンティノ・フェルッチ | 15 | グラハム・レイホール | 45 | クリスチャン・ルンガー | 5 | パトリシオ・オワード | 7 | アレクサンダー・ロッシ | 06 | エリオ・カストロネベス | ||
51 | スティング・レイ・ロブ | 55 | ベンジャミン・ペターゼン | 30 | ジャック・ハーベイ | 6 | フェリックス・ローゼンクヴィスト | 60 | サイモン・パジェノ | ||||||
ユンコス・ホリンジャー・レーシング | |||||||||||||||
77 | カラム・アイロット | ||||||||||||||
78 | アグスティン・カナピノ | ||||||||||||||
その他参戦ドライバー | |||||||||||||||
トニー・カナーン(アロー・マクラーレン) ライアン・ハンター=レイ(ドレイヤー&レインボールド) ステファン・ウィルソン(ドレイヤー&レインボールド) エド・カーペンター(エド・カーペンター) マルコ・アンドレッティ(アンドレッティ) キャサリン・レッグ(レイホール) R.C.エナーソン(アベル) |
PETRONAS TEAM TOM'S | KONDO RACING | KYGNUS SUNOCO Team LeMans | HP REAL RACING | TEAM 無限 | KCMG | ||||||
1 | 中嶋一貴 | 3 | 安田裕信 | 7 | 平川亮 | 10 | 塚越広大 | 15 | 佐藤琢磨 小林崇志 |
18 | リチャード・ブラッドリー |
2 | A.ロッテラー ジェームズ・ロシター |
8 | ロイック・デュバル アンドレア・カルダレッリ |
11 | 中山友貴 | 16 | 山本尚貴 | ||||
Lenovo TEAM IMPUL | NAKAJIMA RACING | Project μ/cerumo·INGING | DOCOMO TEAM DANDELION RACING | TOCHIGI Le Beausset Motorsports | TBA | ||||||
19 | J.P.オリベイラ | 31 | 中嶋大祐 | 38 | 平手晃平 | 40 | 伊沢拓也 | 62 | 嵯峨宏紀 | TBA | キム・ドンウン |
20 | 松田次生 | 32 | 小暮卓史 | 39 | 国本雄資 | 41 | 武藤英紀 |