エドモン・ロスタン Edmond Rostand | |
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アカデミー・フランセーズ会員の制服を着たエドモン・ロスタン(1903年) | |
誕生 |
エドモン・ウジェーヌ・アレクシ・ロスタン(Edmond Eugène Alexis Rostand) 1868年4月1日 フランス、マルセイユ |
死没 |
1918年12月2日(50歳没) フランス、パリ |
墓地 | サン・ピエール墓地(マルセイユ) |
職業 | 劇作家 |
言語 | フランス語 |
最終学歴 | コレージュ・スタニスラス |
ジャンル | 戯曲、詩 |
代表作 |
『シラノ・ド・ベルジュラック』 『シャントクレール』 |
主な受賞歴 | レジオンドヌール勲章コマンドゥール |
配偶者 | ロズモンド・ジェラール |
子供 |
モーリス・ロスタン ジャン・ロスタン |
ウィキポータル 文学 |
エドモン・ウジェーヌ・アレクシ・ロスタン(Edmond Eugène Alexis Rostand、1868年4月1日 - 1918年12月2日)は、フランスの韻文の劇作家。戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者として、特に知られる。アカデミー・フランセーズ会員。
1868年、マルセイユの豪商の家に生まれた。1870年の普仏戦争から翌年のパリ・コミューンに至る騒擾を、家族ぐるみ、ピレネーの山ふところのバニェール=ド=ルション(Bagnères-de-Luchon)に避ける。
1884年、パリに上京し6区のコレージュ・スタニスラスを経てパリ大学法学部に学び、弁護士・外交官など将来に迷いながら、シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール、ジュール・ルナールらの文人と交わる。1888年に最初の戯曲『赤い手袋』をクリュニー座(Théâtre de Cluny)で上演して、不評。1890年に、詩集『手すさび』を私費出版。
その年、2歳年長の詩人ロズモンド・ジェラール(Rosemonde Gérard)と結婚。そのときの代父はルコント・ド・リール、後見人は、アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils)であった。1891年長男モーリス、1894年に次男ジャンを得る。モーリス(Maurice)は、後に作家。ジャン(Jean)は、後に生物学者となる(父と同じくアカデミー・フランセーズ会員。藤田嗣治の作品に『ジャン・ロスタンの肖像(Portrait de Jean Rostand)』がある)。
1894年、恋の幻滅と再生を描いた三募の韻文喜劇『ロマネスク』をコメディ・フランセーズに持ちこんで上演し、その叙情性が好評を呼んだ。ついで、中世吟遊詩人の悲恋物語『遠い国の姫君』をサラ・ベルナールのために書き、これは成功しなかったが、1897年さらに彼女のために書いた三幕の聖書劇『サマリアの女』は、ルネサンス座(Théâtre de la Renaissance)で上演して成功した。
そして、鼻が大きすぎて愛されないと信じている才人貴族の物語『シラノ・ド・ベルジュラック』で、畢生の大当たりをとった。これは、サラ・ベルナールの紹介で知り合った俳優、コンスタン・コクラン(Benoît Constant Coquelin)に依頼された五幕の韻文劇で、ポルト・サン=マルタン座(Théâtre de la Porte Saint-Martin)の1897年12月28日の蓋明けから500日間、400回を打ちつづけ、パリ中を興奮させたと言われ[要出典]、今に至るまで各国で頻繁に上演されている。
その後、1900年にナポレオン2世の悲運を描いた『鷲の子』をサラ・ベルナールにより、1910年に鳥ばかりが登場する寓意的な『東天紅』をコメディ・フランセーズでサッシャ・ギトリーにより、上演するが、世評はシラノに遠くおよばなかった。時代を先取りしすぎたとの所論が、後年行われている。
1901年5月30日、アカデミー・フランセーズの会員に選出される。1915年、女優マリー・マルケ(Mary Marquet)との関係が原因で、妻ロズモンドと離婚。
1918年12月2日、スペインかぜでパリにて死去、享年50歳。故郷マルセイユのサン・ピエール墓地に眠る。
前任 アンリ・ド・ボルニエ |
アカデミー・フランセーズ 席次31 第13代:1901年 - 1918年 |
後任 ジョゼ・ペディエ |