ジョン・フォン・ノイマン (英: John von Neumann 、 1903年 12月28日 - 1957年 2月8日 )は、ハンガリー 出身のアメリカ合衆国 の数学者 。ハンガリー語名は Neumann János Lajos (発音 )。ドイツ語名は Johann Ludwig von Neumann (ヨハン・ルードヴィヒ・フォン・ノイマン)。
数学 ・物理学 ・工学 ・計算機科学 ・経済学 ・ゲーム理論 ・気象学 ・心理学 ・政治学 に影響を与えた20世紀 科学史における最重要人物の一人とされ、特に原子爆弾 やコンピュータ の開発への関与でも知られる。
生い立ち
1903年 にブダペスト にて3人兄弟の長男として生まれた。名はヤーノシュ。愛称はヤーンチ。父は銀行の弁護士ノイマン・ミクシャ(英語名:マックス・ノイマン)、母はカン・マルギット(英語名:マーガレット・カン)で、ともにハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人 だった 。
幼い頃より英才教育を受け、ラテン語 とギリシャ語 の才能を見せた。6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算で行い 、父親と古代ギリシャ語 でジョークを言えた 。8歳で微分積分をものにした。 [要出典 ] 興味は数学にとどまらず、家の一室にあったヴィルヘルム・オンケン (英語版 ) の44巻本の歴史書『世界史』を読了した 。好んで読んだもの、特に『世界史』やゲーテ 、ディケンズ の小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた。長じてからも数学書や歴史書を好み、車を運転しながら読書することもあった 。
1910年 ごろには父親がフェンシング の先生を招き、家族でフェンシングに取り組んだ。もっとも、ノイマンはまったく上達せず、先生も匙を投げてしまう。また、音楽の先生にピアノ やチェロ を習わせたが、これもまったく上達しなかった。実はレッスンの最中に譜面の裏に歴史や数学の本を隠して読んでいたことが後から判明した 。
1913年 に父親が貴族に叙された(オーストリア のユンカー に相当する位)。この段階で「ノイマン・ヤーノシュ」は「フォン ・ノイマン・ヤーノシュ」になり、さらにドイツ語のヨハン・フォン・ノイマン(Johann von Neumann)に変わることになる 。
1914年 にはブダペスト にあるルーテル ・ギムナジウム 「アウグスト信仰の福音学校」へ入学 。ノーベル物理学賞 受賞者ユージン・ウィグナー とはルーテル校で学友だった 。入学したルーテル校のラースロー・ラーツ(en:László Rátz )がノイマンの数学の才能を見抜き、父親に「ご子息に普通の数学を教えるのはもったいないし、罪悪とすらいえるでしょう。もしもご異存がなければ、私どもの責任でご子息にもっと高度な数学を学べるように手配いたします。」と話し、父親が承諾すると、ラーツはブダペスト大学 の数学者にノイマンを引き合わせた。その数学者のひとりであるヨージェフ・キルシャーク 教授がセゲー・ガーボル 講師にノイマンの家庭教師を頼んだ。セゲーは最初の授業で試しに出題した問題をノイマンがみごとに解いたので、その夜自宅で涙を浮かべて喜んでいたと、セゲーの妻は記憶している 。
1915年 から1916年 にセゲーはノイマンの家庭教師を続けた。その後、ブダペスト大学の数学者たちが個人教授をうけもった。そのうちのミヒャエル・フェケテ とリポート・フェイエール が最もよく付き合った 。
1920年 に17歳のギムナジウム時代に、数学者フェケテと共同で最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を書く。その論文は1922年 にドイツ数学会雑誌に掲載される 。
1921年 にラーツは父親との約束を守り、ノイマンが数学以外の科目を勉強するように指導した。ノイマンはギリシャ語、ラテン語や歴史、そして数学の授業も他の生徒と同じように受けていた 。同窓生のウィルヘルム・フェルナー やウィグナーによると、ノイマンはみんなから好かれようと懸命に努力しており、いばるそぶりや自分の殻に閉じこもって周りを無視するようなことは無かった。しかし、体育は何をしてもまったくダメで、どうしても周りの学生といっしょになることはできなかった 。ギムナジウムでは首席であり、当時の成績表によると、ほとんどの科目は「優」であった。いっぽう、例外的に習字 ・体育 ・音楽 の成績は落第すれすれの「可」であった 。6月に受験した卒業試験「マトゥーラ」では首席であり、さらにエトヴェシュ賞 にも合格した 。
1921年 から1926年 にかけてブダペスト大学 (Eötvös Loránd Tudományegyetem ) の大学院で数学 を学んだ。数学よりも金になる学問をつけさせようと望んだ父親は友人のセオドア・フォン・カルマン に相談し 、ベルリン大学 とチューリッヒ工科大学 を掛け持ちして化学工学 (chemical engineering ) を学ぶことになった。授業を欠席しても試験では非常に優秀な成績だった。23歳で数学・物理・化学の博士号を授与された。1926年 、論文がドイツ のダフィット・ヒルベルト にいたく気に入られ、ゲッティンゲン大学 でヒルベルトに師事した。ヒルベルトも彼に感心するばかりで、瞬く間にヒルベルト学派の旗手となり、1927年 から1930年 に最年少でベルリン大学の私講師 (Privatdozent ) を務めた。しかし、1930年代 はナチス 政権を避けて、ノイマン一家はアメリカ合衆国 に移住することになり、ジョンというアメリカ風の名前に改名した。兄弟はみな異なった姓の表記に変え、ヤーノシュは、フォン・ノイマンvon Neumannという貴族風の匂いが強く残る苗字に、彼の兄弟たちはVonneumannとニューマンNewmanにした 。
1930年 にプリンストンに招かれ、プリンストン高等研究所 の所員に選ばれた(4人のメンバーのうち2人はアルベルト・アインシュタイン とヘルマン・ワイル であった)。1933年 以降、この研究所で数学の教授を務めた。ノイマンは、1937年 にアメリカに移住してほどなく応用数学を研究し始め、ドイツとの戦争には数値解析 が必要であると考えた。そこで、アメリカ合衆国陸軍 に自ら志願するが、不採用になった(当時の弾道研究所 の責任者をしていたのはカルマンであり、彼は、ノイマンに化学の道を開いた張本人であったため、ノイマンが応用数学の領域に進むのを阻止したかったからであると言われている[誰によって? ] )。しかし、程なくして爆発物の分野での第一人者となり、アメリカ合衆国海軍 に対するコンサルティングの仕事をした。また、ロスアラモス国立研究所 でアメリカ合衆国による原子爆弾開発のためのマンハッタン計画 に参加していた。さらに弾道研究所が担当していたENIAC のプロジェクト開始から1年後、マンハッタン計画に従事していたノイマンもこの電子計算機のプロジェクトに気付いて関わることとなった 。
1950年代 にはアメリカ合衆国国防総省 、中央情報局 (CIA)、IBM 、ゼネラル・エレクトリック 、スタンダード・オイル など大企業や政府の顧問などさまざまな仕事を引き受け 、特にアメリカ合衆国空軍 へのコンサルティングが増え、1953年に発足した通称「フォン・ノイマン委員会」の答申によって合計6種の戦略ミサイルが開発された 。しかし、太平洋での核爆弾実験の観測やロスアラモス国立研究所 での核兵器開発の際に放射線を浴びたことが原因となって、1955年に骨腫瘍 あるいはすい臓がん と診断された(同僚のエンリコ・フェルミ も1954年に骨がんで死亡している)。癌は全身に転移。その後も精力的に活動を続け、合衆国政府の相談役として重要な役割を果たし続けた。アメリカ原子力委員会 初代委員長ルイス・ストローズ (英語版 ) の回想によれば「あるとき国防総省がノイマンに相談することになった…。移民だった彼のベッドはいまや国防長官 、副長官、陸海軍の長官や参謀長達に囲まれていた」という。また1951年から翌年までアメリカ数学会 会長を務めた。
1956年1月にワシントンD.C.のウォルター・リード病院 (英語版 ) に入院。死が間近になると、以前は信仰に熱心でなかったにもかかわらず、1度目の結婚の際に改宗したカトリック教会 の司祭と話すことを望んで、周囲を驚かせた。1957年2月に53歳で死去。ニュージャージー州のプリンストン 墓地に埋葬されている 。
活動
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数学
物理学
戦争への協力
兵器である砲弾や爆弾は、爆発さえすれば目標になんらかの影響を与えることはできるが、その威力は単純に爆薬量だけに依存するわけではない。威力は爆発方法や弾体の形、構造などによっても大きく異なる。
フォン・ノイマンは、1930年代半ばから爆発時の空気や液体などの流体の衝撃波に興味を持った。彼は1940年頃から衝撃波の理論構築を進め、平面だけでなく球面衝撃波の問題も研究した。1941年からは国防研究委員会 (NDRC)の顧問、後に委員となり、爆発時の噴流を特定方向に集中させて威力を増す指向性爆薬(成形炸薬)の爆発も研究した[要ページ番号 ] 。
また、爆発時に衝撃波がどのように発生するかは、流体力学の非線形偏微分方程式を何らかの手段で解く必要があり、この必要性が彼が電子計算機に関わるきっかけの一つとなった。
気象学
背景と数値予報に関わるまでの経緯
1944年8月に、フォン・ノイマンは数学者ハーマン・ゴールドシュタイン と偶然に知り合いになった。その際に彼はゴールドシュタインから初の汎用電子コンピュータENIAC のことを聞いた。彼は高速での計算が可能になれば、さまざまな分野の非線形偏微分方程式を数値的に解くことができ、そうなれば、さまざまな分野に全く新しい革新をもたらすことを知り抜いていた。フォン・ノイマンは素早く電子コンピュータの本質を理解し、ENIACの演算回路の改良とともに次に計画されていた計算機EDVAC の性能を格段に上げるため新しい発想を練り上げた 。彼はENIACを知ってわずか2週間でプログラム内蔵型コンピュータの概念を作り上げ、翌年3月には現在のコンピュータの基本構成となる案 を作り上げた 。
1945年にはプリンストン高等研究所(IAS)でENIACの後継の独自の新型コンピュータ開発のためのプロジェクトである電子コンピュータプロジェクト(Electronic Computer Project)を立ち上げた。この膨大な資金を必要とする電子コンピュータの開発には、資金集めのためのわかりやすい目的が必要だった。彼は1945年頃にシカゴ大学の気象・海洋学者であるカール=グスタフ・ロスビー (Carl-Gustaf Rossby)から、気象予測が主観的な職人芸となっていることを知った。電子コンピュータによる気象予測やその結果を用いた気象改変は人々にとってわかりやすい目的だった。彼は気象予測のための非線形偏微分方程式(プリミティブ方程式 )を電子コンピュータを使って数値計算すれば、職人芸ではなく客観的な予報(数値予報)ができると考え 、電子コンピュータプロジェクトの一つに数値予報の開発を加えた。
気象プロジェクト
ものごとをとにかく前に進めることが得意なフォン・ノイマンは、さっそく1946年に海軍などを説得して資金を集めた。そして、電子コンピュータを使った数値予報を研究するために「気象プロジェクト(Meteorology Project)」を立ち上げ、世界の主な気象学者を集めて会議を開いて、気象学者たちをまとめた。これによってプロジェクトは実現へと踏み出した 。しかし、数値予報はイギリスの気象学者ルイス・リチャードソン (Lewis Richardson)が第一次世界大戦中に手計算で行って失敗しており、単に偏微分方程式を差分形にして電子コンピュータで計算するだけではうまくいかないことははっきりしていた。その打開のために、1948年にアメリカの気象学者ジュール・チャーニー (Jule Charney)が気象プロジェクトに招かれた。チャーニーによってリチャードソンによる失敗の回避が行われ、電子コンピュータを用いた数値予報のための手法が切り開かれていった 。
数値予報の実験は、当初ENIACではなくその後継マシンで行う予定であったが、後継マシンの開発が遅れたため、1950年からENIACを使って、順圧モデルという気象の移流のみを予測する簡易化された気象予報モデルで予報の再現実験が行われた。この際に、モデルを内部記憶装置が小さいENIACで計算できるようにするために、フォン・ノイマンがその手法を開発した。この結果は1950年に発表され、数値予報が実現可能であることを実証した記念碑的な論文となった。この論文の3名の著者の一人としてフォン・ノイマンも入っている 。
実験的な数値予報の成功
フォン・ノイマンが高等研究所で開発していたコンピュータ(IASマシン )が1951年に完成した。この高速の計算機を利用して、1952年にはチャーニーらは、複雑な傾圧モデルを用いて低気圧発達の再現に成功した。これを受けて、現業運用のための数値予報モデルの開発のために、1954年にアメリカに「合同数値予報グループ(Joint Numerical Weather Prediction Unit: JNWPU)」が設立された。これは後に、現在アメリカで数値予報を行っている国立環境予報センター(National Center for Environmental Prediction : NCEP)となっていった。
一方で、1956年にはシカゴ大学の気象学者ノーマン・フィリップス(Norman Phillips )が、大気大循環モデルの計算実験を行って、地球上の大気の典型的な気候学的循環パターンの再現に成功した。その将来性に気付いたフォン・ノイマンは、早速大循環モデルのその後の発展のための会議のお膳立てをした。しかし、がんが進行していたフォン・ノイマンは、1957年に亡くなってしまった。しかし、気象プロジェクトから始まった数値予報モデルと大循環モデル(気候モデル)は、現在日々の天気予報やIPCCなどで議論されている地球温暖化の将来予測に欠かせないものである 。
経済学
計算機科学
IASマシン の前で並ぶノイマンとロバート・オッペンハイマー (左)
核兵器開発への加担
原子爆弾 開発に参加したころのIDバッジ写真
この分野での彼の主要な業績には、「大きな爆弾による被害は、爆弾が地上に落ちる前に爆発したときの方が大きくなる」というものがある。この理論は、広島と長崎に落とされた原子爆弾 にも利用された。
長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾ファット・マン のための爆縮レンズ の開発を担当し、1940年代に爆轟波面の構造に関するZND理論 を確立した。この理論を元に10か月にわたる数値解析によって、爆薬を32面体 に配置することによって、原子爆弾 が実際に実現できることを示した。
ソ連のスパイだったクラウス・フックス と水素爆弾 を共同で開発していた。
日本に対して原爆投下の目標地点を選定する際には「京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっているからこそ殲滅すべき」だとして、京都 への投下を進言した。このような側面を持つノイマンは、スタンリー・キューブリック による映画『博士の異常な愛情 』のストレンジラヴ博士のモデルの一人ともされている。
逸話
その驚異的な計算能力 と映像記憶 力 、特異な思考様式、極めて広い活躍領域から「悪魔の頭脳」「火星人」「1,000分の1インチの精度で噛み合う歯車を持った完璧な機械」 と評された。
圧倒的な計算能力については数々の逸話が残っている。
子供の頃、電話帳の適当に開いたページをさっと眺めて、番号の総和を言って遊んでいた。
八桁と八桁のかけ算及び割り算を暗算で行う。
座ってぶつぶつ独り言を言いながら放心したように天井を見つめて暗算し、数分間目を泳がせた後おもむろに口を開き、それを解くことは不可能だと主張する研究者の目の前でスラスラと問題を解いてみせた。
頭にめぼしい定数や方程式をどっさり覚えていて、それらを総動員して電光石火で問題を解き、他人の着想をみるみる膨らませていった。「誰かが一つ提案しようものなら、ひっつかんで、あっという間に五ブロック先まで行ってしまう」、「自転車で特急を追いかける気分でした」と言わしめた 。
プリンストンの高等研究所内に完成したコンピュータの性能をテストする為に適当な問題をやらせてみることにした。答え合わせの正しい解答が必要だったので、そこで即席の力くらべとしてフォン・ノイマンが機械と競争することになった。当時のこのコンピュータは1秒間にわずか乗算2000回の処理能力しかなかったとはいえ、先に答えを出したのはフォン・ノイマンだった 。
コンピュータ・プログラム(50行のアセンブリ言語)を頭の中で作成したり修正したりする 。
ロスアラモス にて科学者たちからいわゆる御神託と目されていたフォン・ノイマンとエンリコ・フェルミ だが、ある時二人は流体力学に関してちょっと変わった競争形式の議論を行っていて、それはめいめいが問題となっている事柄を一番速く解こうとするものであった。しかしフォン・ノイマンの稲妻のような分析能力に太刀打ちできる者はやはりなく、彼が常に勝ちを収め、かの天才フェルミであってもそれは例外ではなかった 。
さる抜群の実験物理学者とエミリオ・セグレ が、ある積分によって定まる問題のことで悪戦苦闘していたところ、部屋の開きっ放しになったドアからフォン・ノイマンが廊下を歩いてくるのが見えた。二人が助けを求めると彼はドアのところまで来て黒板をチラリと眺め、その場でいきなり答えを書き取らせて彼らを仰天させた。このような例が1ダースではきかなかったという 。
語学にも非常に優れていた。
幼少期に家庭教師たちに仕込まれたドイツ語、英語、フランス語、イタリア語の他、父マックスとギムナジウムの授業からラテン語とギリシャ語を身につけ、こうして母語のハンガリー語と合わせて7つの言語を扱うことが出来た。また、これらの内のどの言語で話しても、一つの言語しか話せない人よりも速く話せたと言われている 。
3ヵ国語で同時にジョークや猥談を行う。
しかし、手紙の英語のスペルはよく間違えていた。
たびたびドイツ語の語句に対応する英語の語句を尋ねていたようで、アメリカ移住後もアイデアはドイツ語で思い付き、それを英語に素早く翻訳していたようである 。
オンケンの『世界史』全44巻を読み終え、10歳にして、現在の出来事と歴史上の出来事との間の類似点を指摘したり、両者を軍事戦略や政治戦略の理論と関連付けて論じることが出来た 。
ある時、ハーマン・ゴールドスタイン がフォン・ノイマンの能力を試してみようと、ディケンズの『二都物語』の冒頭部分を言ってみてくれと頼んだところ、一瞬もためらうことなく第一章を暗唱し始め、もういいと言うまで10分か15分間暗唱し続けた 。
幼少時代、深い思考に入るときに部屋の隅へ行き壁と壁の継ぎ目を凝視するクセがあった 。
入院後は、車椅子で救急車 に乗ってまで、アメリカ原子力委員会 の会合に出席したりした 。
後にノーベル経済学賞を受賞するジョン・ナッシュ は、学生時代にノイマンにナッシュ均衡 に関する考えを紹介している。この時、ノイマンは理論の結論を聞く前に「それは注目に値するほどのことかね、要は不動点定理を適用しているだけじゃないか」と一蹴した。なお、ナッシュ均衡に関してはナッシュ自身も「私の業績の中でも特に目立たぬもの」と評している 。
1930年 9月7日 にケーニヒスベルク で開催されていた「厳密科学における認識論」についての第2回会議においてクルト・ゲーデル が第一不完全性定理 を発表すると、発表の後にノイマンはゲーデルと個人的に会話を行い、定理の内容を直ちに理解した。その会議の後、ゲーデルは第二不完全性定理 を得て論文にまとめ、論文は11月17日 に受理された。いっぽう、ノイマンは独力で第二不完全性定理を導き、その結果を11月20日 付けの手紙でゲーデルに知らせた。ゲーデルはすぐに返答の手紙を書き、論文の別刷 を添えて返送した 。この分野で自分に先んじたゲーデルのことは例外的に尊敬しており、生涯高く評価し続けた 。
何十年も居住している家の棚の食器の位置すら覚えられなかったほか、1日前に会った有名人の名前すら浮かばなかったことも。興味がないものに対しては全く無関心であると評された。またこれらの事は、ノイマンが事柄の記憶にひきかえ、意外にも画像の記憶が不得手であったことに由来しているとも言われる。親友であったスタニスワフ・ウラム の自伝にも、そのことを表す記述が見られる。「ジョニーは与えられた物理的状態の下でどんなことが起こっているかを推測する直観的常識や、十分な感覚あるいは趣味を、ほとんど持ち合わせていなかった。彼の記憶は主に耳からのもので、目からのものではなかった」 。
政治での立場はタカ派 であった。
青年期に経験したハンガリー革命 、アーサー・ケストラー の『真昼の暗黒 』やスターリン 政権下のソビエト連邦 への短い旅行などを通じて、ナチズムと共産主義を「左右の全体主義」と嫌っていた 。ソ連への先制攻撃 を強く主張し、後に『ライフ 』誌が掲載した死亡記事によれば 、1950年に「明日彼らを爆撃しようではないかと言われたら、なぜ今日爆撃しないのかと言う。今日の5時にと言うなら、なぜ1時にしないのかと言う。」("If you say why not bomb them tomorrow, I say why not bomb them today? If you say today at 5 o'clock, I say why not 1 o'clock?") という発言をしたとされる。
ハト派 だったノーバート・ウィーナー とは性格から政治信条まで好対照だったため、比較に出されることが多い 。ウィーナーとは1945年以降にサイバネティックス の分野で共同研究をした。1940年代後半にノイマンが生物学の研究のためには細胞 を研究すべきだという手紙をウィーナーに出した結果、ウィーナーの怒りを買い、共同研究は終わりを迎えた 。
ウラムによれば、フォン・ノイマンは極めて広範囲の科学に興味を抱き、数学者として複雑な推論に由来する妙技や抜群の洞察力がある一方で、絶対的自信に欠けるところがあったという。最高水準にある新しい真理を直感的に予知する力、新定理の証明や定理化に一見不合理なところがあることを知覚する特殊才能に欠けると感じていたようである 。
マンハッタン計画において原爆開発に関わっている科学者はロスアラモスに居住すべしとする規則があったが、フォン・ノイマンはこれを免れた数少ない者の1人であった 。
チューリッヒにいた頃、親友のユージン・ウィグナー と共にビリヤードを覚えようと思い立ち、ビリヤードのある喫茶店へ出かけ、老練なウェイターにビリヤードを教えてくれるように頼んだ。するとそのウェイターは「君たちは勉強が好きかい。女の子に興味があるかい。本当にビリヤードを習いたいんなら、どっちもやめてしまいなよ」と言った。二人はちょっと相談して、どちらか一方はやめてもよいが両方はやめられないということになり、ビリヤードを習うのをやめたという。
アインシュタイン の心には、最も優れた人や有名な人も含め他の物理学者に対して一種の軽蔑が育まれてしまったのではないか、あまりに神格化されもてはやされ過ぎてしまったと思わないかどうかとウラムに尋ねられた際、「君の言っていることは正しい。彼は、この物理学の歴史において他の人々が自分の競争相手となるものであるという考えが、あまりにもなさ過ぎる」と同意した。
セクハラ の常習犯で、秘書のスカートの中を覗くのが趣味だった。また下品なジョーク や会話で周囲の顰蹙を買う事も多かった 。
雨中のドライブで交通渋滞にあった時、「この頃は、車は交通機関としてはだめだね。しかし素晴らしい傘になるよ」と言った。車はずっと好きであった。
日本語訳
出典
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^ 『数学のスーパースターたち -ウラムの自伝的回想-』東京図書、1979年、99頁。
^ 『数学のスーパースターたち -ウラムの自伝的回想-』東京図書、1979年、72頁。
^ “アインシュタインが天才と崇めた男、ジョン・フォン・ノイマンは天才の中の天才だった! | ガジェット通信 GetNews ”. ガジェット通信 GetNews (2023年3月2日). 2023年12月7日 閲覧。
参考文献
伝記研究
関連項目
外部リンク
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