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2015年のヒューズ | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
レズリー・マーク・ヒューズ Laslie Mark Hughes | |||||
愛称 | スパーキー | |||||
ラテン文字 | Mark Hughes | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ウェールズ | |||||
生年月日 | 1963年11月1日(60歳) | |||||
出身地 | レクサム | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1980-1986 | マンチェスター・U | 89 | (37) | |||
1986-1987 | FCバルセロナ | 28 | (4) | |||
1987-1988 | → バイエルン・ミュンヘン (Loan) | 18 | (6) | |||
1988-1995 | マンチェスター・U | 256 | (83) | |||
1995-1998 | チェルシー | 95 | (25) | |||
1998-2000 | サウサンプトン | 52 | (2) | |||
2000 | エヴァートン | 18 | (1) | |||
2000-2002 | ブラックバーン | 50 | (6) | |||
通算 | 606 | (164) | ||||
代表歴 | ||||||
1984-1999 | ウェールズ | 72 | (16) | |||
監督歴 | ||||||
1999-2004 | ウェールズ代表 | |||||
2004-2008 | ブラックバーン | |||||
2008-2009 | マンチェスター・シティ | |||||
2010-2011 | フラム | |||||
2012 | クイーンズ・パーク・レンジャーズ | |||||
2013-2018 | ストーク | |||||
2018 | サウサンプトン | |||||
2022- | ブラッドフォード・シティ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
レズリー・マーク・ヒューズ(Leslie Mark Hughes OBE, 1963年11月1日 - )は、ウェールズ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはFW。現在はEFLリーグ2・ブラッドフォード・シティAFCの監督を務めている。
屈強な体を生かした巧みなポストプレー、豪快なシュートが特徴で、また勝負強く、重要な試合でよくゴールをあげるなど、サポーターからスパーキーの愛称で親しまれた。1992-93シーズンに長い間低迷を続けたマンチェスター・ユナイテッドを26年ぶりのリーグ制覇に導いた立役者の一人であり、クラブでは通算467試合に出場163ゴールを挙げた。
1978年にマンチェスター・ユナイテッドの下部組織に加入、1983年にトップチームと契約を結んだ。1983-84シーズンにはオックスフォード戦でゴールを挙げるデビューを果たすと、16得点をあげる活躍でPFA年間最優秀若手選手賞を受賞、翌1984-85シーズンにはFAカップ優勝に貢献した。 1986年からはエヴァートンFC所属のゲーリー・リネカーと共にスペインのFCバルセロナへ移籍するが28試合で僅か4ゴール結果を残せず、酷評された。翌1987年にドイツのバイエルン・ミュンヘンへレンタル移籍に出された。
1988年に古巣のマンチェスター・ユナイテッドへ復帰を果たすと、アレックス・ファーガソン監督の下で本来のプレーを取り戻し、1989-90年のFAカップ決勝、クリスタルパレス戦では2ゴールを挙げて優勝に貢献、また1990-91シーズンにUEFAカップウィナーズカップ決勝、古巣のFCバルセロナ戦では2ゴールを挙げて優勝に貢献し、PFA年間最優秀選手賞を受賞。プレミアリーグ創設最初のシーズンとなった1992-93シーズンにはフランスのエリック・カントナとのコンビで攻撃陣を牽引し、26年ぶりのリーグ優勝に貢献、翌1993-94シーズンはリーグとFAカップの二冠に貢献した。このシーズンのFAカップ決勝のチェルシーFC戦ではチームの3点目を決めて優勝に貢献した。
1995年に少年期からファンであったチェルシーFCへ移籍。チェルシーではジャンフランコ・ゾラらと共に1997年にFAカップ、1998年にUEFAカップウイナーズカップ優勝に貢献した。その後はサウサンプトン、エヴァートン、ブラックバーン・ローヴァーズを渡り歩き2002年に38歳で現役を引退した。
ウェールズ代表としては1984年から1999年の間に国際Aマッチ72試合に出場し16得点を記録し、1999年からは代表監督も兼任して務めたが、FIFAワールドカップやUEFA欧州選手権などの国際大会への出場は叶わなかった。
2002年に引退後は、ひき続きウェールズ代表監督を務め、UEFA欧州選手権2004予選では、同年10月22日に敵地のナポリで行われたイタリア戦において強豪を相手に2-1で下すなどの手腕を発揮し、最終的にグループ2位でプレーオフ進出へと導いた。しかし2003年11月に行われたプレーオフでは2試合合計0-1のスコアでロシアに競り負け本大会への出場は成らなかった。
次ぐFIFAワールドカップ・ドイツ大会予選においても引き続き指揮を執ったが、第1戦のアゼルバイジャン戦、第2戦の北アイルランド戦を共に引分けると2004年9月に監督を辞任し、古巣のブラックバーン・ローヴァーズの監督に就任した。
2004年9月に前任のグレアム・スーネス監督がボビー・ロブソン監督を解任したニューカッスル・ユナイテッドFCの後任監督に就任するために辞任したことを受けて、シーズン途中からブラックバーンの監督に就任した。フォーメーションは4-4-2を採用してデビッド・ベントリーやモアテン・ガムスト・ペデルセンによるサイド攻撃を活かす半面、中盤のボランチに運動量を求めて攻守のリズムを生みだした。
1年目の2004-05シーズンに強固なディフェンスを植え付けて下地を作るとFAカップで40年ぶりに準決勝進出、2005-06シーズンには攻撃面を強化して6位で。UEFAカップ出場権を得た。2006-07シーズンにはクレイグ・ベラミー、ポール・ディコフらが退団したが、代わりに南アフリカ代表ベネディクト・マッカーシーやシャバニ・ノンダらを獲得。同シーズンはUEFAカップとの日程の兼ね合いに苦労し、リーグ戦は10位という結果に終わったがFA杯ではベスト4に進出した。また、マッカーシーが18得点をあげ得点ランク2位となるなど前述の退団者の穴を埋める以上の活躍を見せた。ヒューズ自身も2007年10月にはプレミアリーグ月間最優秀監督賞を受賞した 。
2007-08シーズンはバイエルン・ミュンヘンからパラグアイ代表FWロケ・サンタクルスが加入。ヒューズはサイド攻撃を強化させ「ヨーロッパ・カップに出場する常連クラブを目指す」という目標を掲げた。このシーズンには移籍初年度のサンタクルスが19得点(得点ランク4位)、マッカーシーが8得点と攻撃陣を牽引しリーグ戦で7位となり再びUEFAカップ出場権を獲得した。
2008年6月、マンチェスター・シティFCがヒューズ獲得に動き、契約途中であったため違約金をブラックバーンに支払う形で退団が決定した。ブラックバーンでは約4シーズン指揮を執り安定した成績をもたらした。なお、ヒューズの後任にはマンチェスター・ユナイテッド時代の同僚であるポール・インスがプレミアリーグ初となる黒人監督として就任した。
2008年6月2日、スヴェン・ゴラン・エリクソンの後任として、マンチェスター・シティFCの監督に就任した。マンチェスター・シティでの1シーズン目は10位に終わるものの、2シーズン目となった2009-10シーズンは大型補強もありアーセナル、チェルシーに勝利。第17節の時点でリーグ最少の2敗に留めるなど好調を維持したが、7試合連続の引き分けもあり、サンダーランド戦の試合ハーフタイムに解任を告げられた。この解任について選手時代にヒューズを指導したアレックス・ファーガソンは
このような行為は受け入れられない。20試合くらい負けていたのであれば構わないがヒューズの場合はわずか2試合だ。物事にはやり方というものがある。 — ヒューズの解任について、アレックス・ファーガソン
2010年7月29日、リバプールFCの監督に就任したロイ・ホジソンの後任としてフラムFCの監督に就任した。契約期間は2年。2010-11シーズンを8位(11勝16分11敗)の成績で終え、シーズンを通じて退場者を1名出したのみだったことからUEFAフェアプレーランキングで2位となり、同ランキング1位のチェルシーFCがUEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得していたこともあり、UEFAヨーロッパリーグ予選の出場権を獲得したが、2011年6月2日に同月末で監督を退任する意向を表明した。
2012年1月より、クイーンズ・パーク・レンジャーズFC監督に就任したが、11月に成績不振のため解任された。
2013年5月30日、トニー・ピューリス監督の後任としてストーク・シティFC監督に就任した。ストークは移籍市場ではたった620万ポンド(約11億円)しか投資していないにもかかわらず、2013-14シーズンは当時クラブ史上最上位となる9位でシーズンを終えるなど、クラブ首脳陣からはその手腕が高く評価された。
2015年3月28日、ストーク・シティと新たに4年契約を結んだことを発表した。期間は2019年夏までとなっている。
2017-18シーズンはチームが降格圏に沈んだことを受けて2018年1月6日をもって解任された。
2018年3月14日、選手時代に所属したサウサンプトンFCとシーズン終了までの契約で監督に就任した。 2017-18シーズンは最終的にチームを残留に導いた。
翌2018-19シーズンは14節終了時点でわずか1勝、18位と降格圏に低迷したため、12月3日解任が発表された。
高木琢也が現役時代に憧れ目指していた選手であった。
クラブ | 国 | 就任 | 退任 | 記録 | |||||
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試合 | 勝ち | 分け | 負け | 勝率 % | |||||
ウェールズ代表 | 1999年8月3日 | 2004年10月13日 | 41 | 12 | 15 | 14 | 29.27 | ||
ブラックバーン・ローヴァーズFC | 2004年9月15日 | 2008年6月3日 | 188 | 82 | 47 | 59 | 43.62 | ||
マンチェスター・シティFC | 2008年6月4日 | 2009年12月19日 | 77 | 36 | 15 | 26 | 46.75 | ||
フラムFC | 2010年7月29日 | 2011年6月2日 | 43 | 14 | 16 | 13 | 32.56 | ||
クイーンズ・パーク・レンジャーズFC | 2012年1月10日 | 2012年11月23日 | 34 | 8 | 6 | 20 | 23.53 | ||
ストーク・シティFC | 2013年5月30日 | 2018年1月6日 | 200 | 71 | 48 | 81 | 35.50 | ||
サウサンプトンFC | 2018年3月14日 | 2018年12月3日 | 27 | 5 | 10 | 12 | 18.52 | ||
ブラッドフォード・シティ | 2022年2月24日 | 13 | 5 | 3 | 5 | 38.46 | |||
合計 | 623 | 233 | 161 | 229 | 37.40 |